歴史漫談『官兵衛とかんべえ』

@戦国時代編(掲載:2000.4.2--4.5)



<4月2日>(日)

○『播磨灘物語』を読み返してみました。「かんべえ」というハンドルネームの元となった黒田官兵衛の生涯なんですが、あらためて気がつくと、彼は20代にはほとんど何もしていないんですね。官兵衛が世の中に飛び出すのは、30を過ぎて羽柴秀吉に出会ってから。その後の活躍はわりと有名ですが、若き日の官兵衛が何をしていたのかはほとんど伝わっていない。ことによると鬱々とした日々だったような気もする。

○『播磨灘物語』の中では、官兵衛がキリシタン仲間との交流したり、将軍足利義昭擁立に協力したことが書かれているけど、このあたりは司馬遼太郎さんの想像力の産物と考えたほうがいいでしょう。のちの天才軍師は、どんな青春時代を送っていたのか。ということで、架空インタビューを実施してみました。

かんべえ 「官兵衛さんは20代の頃は何をしていたんですか?」
官兵衛 「いやもう、正直なところ暇で暇で・・・・。こんな田舎でくすぶっていていいのかと、何度も思いましたよ」
かんべえ 「やめちゃいたいとは思いませんでしたか」
官兵衛 「そんなこといっても、僕は長男だし、筆頭家老だし、無責任なことはできませんよ」
かんべえ 「長男だなんて、そんなこと気にする人だったんですか」
官兵衛 「親父が40代で隠居して、僕に家督を譲ってくれたでしょう。それでいきなり小寺家の筆頭家老でしょう。最初のうちは重荷だったですよ。弟もいるし、家臣はみんな真面目だし、周囲の期待は大きかったし・・・・。それに小寺氏の家老って、ほかに頼りになるひとはあんまりいないし、退屈なわりには結構きつかったですよ」

かんべえ 「小寺家を乗っ取って独立、なんて思いませんでしたか」
官兵衛 「全然。僕はそんなガラじゃないって・・・・」
かんべえ 「そういうところが後世では人気があるんですけど、その気になれば20代のうちに播磨一国くらいは取れてたでしょ」
官兵衛 「(笑い)・・・・かもしれないけど、その場合は人生そこで終わったでしょうね。後になってから良かったなと思ったんだけど、僕は20代では何もしなかったけど、無茶や無理もしなかったの。それで信用されたと思うんだな。田舎で信用されるには、“昔から知ってる”ってのがいちばんですからね。とくに黒田家内部が僕を信用してくれた。その後、僕はいろんなギャンブルをしたけど、みんな最後までついてきてくれましたからね」
かんべえ 「それじゃやっぱり、無駄にしてたわけじゃないんだ」
官兵衛 「やっぱり二代目ですからね。親の代からの家臣に信用されるのって、難しいですよ」

かんべえ 「20代で楽しかったことって何がありますか」
官兵衛 「やっぱりキリシタンになったことでしょうね。正直に言いますけど、僕はそれほど信仰心が厚かったわけじゃないんです。ただね、キリシタンになると情報が入ってきた。それが面白かった」
かんべえ 「なぜキリシタンは情報が入るんですか」
官兵衛 「キリシタンになるって連中は、当時としてはインテリなんですよ。それも若くて面白い奴が多かった。そいつら全員と友人になれたんです。しかも神の前にはみな平等だから、大名でも商人でも対等に付き合うんです。今でいうネットワーキングですか。田舎に住んでいたけど、あれで世界が広がったと思う」
かんべえ 「なんだか勉強会みたいなことをしてたんですね」
官兵衛 「情報を集めるとか、形勢を分析する技術なんてのは、あの頃に覚えたんです」

かんべえ 「官兵衛さんの20代には、播磨の国はまだ空白地帯ですね」
官兵衛 「東から織田家、西から毛利家が伸びてきていた。でも播磨に到達するまでには、5年以上かかると思っていたから、あわてることはなかった。そうそう、それでお金を貯めてましたね」
かんべえ 「官兵衛さんは晩年になってもケチだったという評判が残っています」
官兵衛 「若いときからの癖なんだな、きっと。いずれ勝負のときが来る、と思ってたから」
かんべえ 「そういうお金は何に使ったんですか」
官兵衛 「主に情報を集めるためかな。そうそう、僕は初めて秀吉に会ったときは袖の下を渡してるんですよ。あの人はお金のかかる人だって知ってたから」

かんべえ 「官兵衛さんは、意外と生臭いこともしてるんですね」
官兵衛 「その辺が竹中半兵衛さんとの違いかな。僕はね、秀吉の若い頃からの悪事をいっぱい知ってるの。とても書けないようなことも含めて」
かんべえ 「歴史に残ってないことも含めて、ですね」
官兵衛 「歴史に残っていることなんて、ほんの一部ですからね。年取ってから、僕は秀吉から干されるわけだけど、それって無理のない話なの。弱みをいっぱい握っているわけだから」
かんべえ 「歴史に残ってない話を少し教えてくださいよ。本能寺の変は実は秀吉が仕組んだとか」
官兵衛 「そりゃあちょっと無理があるけど、司馬さんが書き残したことはたくさんありますよ。いい本だけどね」



<4月3日>(月)

○かんべえと官兵衛の会話は思ったよりはずんで、どんどん先へと進みます。

かんべえ 本当は、官兵衛さんの20代についてだけ聞くつもりだったんですけど、ご機嫌が良いようなので、もう少し話を伺ってみましょう。で、司馬さんがあの時代について書き残したことって、どんなことがあるんでしょう。
官兵衛 たとえばね、織田軍団の内部事情なんかは、あんなに生易しいものではなかったね。
かんべえ と、いいますと?
官兵衛 当時の織田軍団というと、今でいうとオーナー社長の下で急成長している企業なわけですよ。もうソフトバンクか光通信かってくらいで。組織の内部はもうむちゃくちゃね。朝令暮改に下克上で、落ち着きがない上にピリピリしているの。仲間内の足の引っ張り合いもすごくえげつない。
かんべえ たとえば、秀吉と柴田勝家は仲が悪かったそうですね。
官兵衛 あの二人はまだいいの。お互いに認め合っているところがあったから。でも、汚いことするやつもいるわけ。たとえば信長の晩年に、重臣の林、佐久間が放逐されるでしょ?あれだって仕掛けるやつがいるの、内部に。もう油断も隙もない。前線に立ってても、いつ後ろから弾が飛んでくるか分からない。正直なところ四分六で内部の方を向いてないと、仕事ができないって感じ。

かんべえ でも、織田軍団の中で秀吉は出世しますよね。あれはやっぱり他人の足を引っ張ってのし上がるんですか。
官兵衛 そういう面がなかったとはいえないよね。たとえば、ある時期の織田家は、誰が中国方面担当司令官になるかがすごく注目されるんです。誰が見たって打倒毛利家が最重要課題だし、その担当者が織田家ナンバーワンの評価になるから。信長はそういうとき、部下にコンペをさせるんです。もっとも早く、確実に、安上がりに勝てそうな部下を選んで指名する。実はある時期までは、この競争は光秀が一番札だった。
かんべえ 秀吉はそれを大逆転するわけですね。
官兵衛 そう、そのやり方がおかしいの。秀吉はいきなり僕を岐阜城に連れていって、「すごい男を見つけました。この男ひとりで播州は取れます。ついでに中国方面も全部取れます」って宣伝するわけ。そこで僕は初めて信長の前に出て、「こうすれば毛利は倒せます」と一席ぶたされるんです。これが受けちゃって、「よし、だったら秀吉、毛利攻めはお前がやれ」。これで決まり。
かんべえ いきなり自分の出世に利用されちゃったわけですね。
官兵衛 そう、だから秀吉は僕には恩義があるんです。

かんべえ じゃあ、毛利攻めの最中にも、同僚によるいじめがあったんですか。
官兵衛 端的にいうと、荒木村重が造反するでしょ。あれで僕はエライ目にあうわけだけど、僕の前に、最後に説得に行ったのは明智光秀なの。でも説得に行ったのか、寝返りをけしかけたのかは分からないよ。
かんべえ ひえー、そりゃひどい。
官兵衛 だって、彼は秀吉にポストを取られて、気の進まない丹波攻略なんかをさせられてるんだもの。邪推かもしれないけど、「おぬしの気持ちはよく分かる」なんて言ってたんじゃないの?摂津の村重が寝返ると、播磨の羽柴軍は困るけど、丹波の明智軍は関係ないしね。
かんべえ 光秀はけしからんやつですね。
官兵衛 でもね、こっちも彼に対してはいろいろやったから。

かんべえ 具体的にどんなことをしてたんですか。
官兵衛 スパイを送ってたんだよね。明智軍だけじゃないよ、秀吉軍てのは自民党田中派みたいなもので、そこらじゅうに「隠れ秀吉派」を作ってあるわけ。光秀はとくに危ないってんで、優秀なのを送り込んどいたの。そしたらある日、様子がおかしいことに気づいたんだな。
かんべえ ひょっとして・・・・
官兵衛 そう、明智軍が亀山城を出て、老の坂まで来たら、「わが敵は備中にあらず、本能寺にあり」って言うんだもん、そのままスパイは逐電して秀吉陣営まで飛んできた。
かんべえ 本能寺の変を知らせたのはスパイだったんですか。
官兵衛 もちろん、信長が死んだかどうかはわからなかったけど、結果は察しがついたよね。堺の商人が飛脚をよこしたとか、明智の使者が報告先を間違えたってのは、僕らが後で作った話。これが「中国大返し」の実態ですよ。

○かんべえさんのインタビューに対し、官兵衛さんは快調に何でもしゃべってくれる。明日はいよいよ本能寺の変の真相が明らかになる。乞うご期待。



<4月4日>(火)

○光秀の謀反は秀吉陣営にはつつぬけだった、という。そうなると気になってくるのは、日本史最大の謎のひとつである本能寺の変の真相だ。

かんべえ そこまで話したら、本能寺の変の真相についても教えてくださいよ。
官兵衛 うーん、本当のところはね、僕らもわかんないよ。光秀がなんであんなことをしたのかはね。でも、彼の気持ちは分かるんだ。
かんべえ 後世では怨恨説、野望説などが有力とされています。
官兵衛 野望ってことはないよ。奴はそんなタマじゃなかった。怨恨も当たらないね。浪人してたところを拾ってもらったんだから、信長への恨みよりは恩義の方が圧倒的に大きい。強いていえば、正当防衛に近いのかな。あのままいけば、彼は確実に殺されていた。だから殺られる前に殺った。それと、最後の頃の光秀は、心身症に近かったからね。
かんべえ 光秀をそんな風に追い込んだのは信長自身だった、と。
官兵衛 うーん、これを説明するのは難しいんだけど・・・・・

かんべえ いろいろわけがありそうですね。
官兵衛 そうだな、ある時期から信長は明らかにおかしくなっちゃうわけ。もう、全然、感情の抑制が効かなくなってしまうの。やたらと人を殺させたり、かと思うとボロボロ泣いたり、冷静な指導者ではなくなってしまう。元亀年間の頃は、織田家がいつ滅ぼされるかわからないという緊張感があったけど、長篠の合戦あたりからはそれもなくなって、完全に自分を止められなくなった。天正9年には「伊賀のもの、一人も生かすな」なんて無茶苦茶な命令を出してしまう。でも、なにしろ織田家はワンマンカンパニーだから、そうなっちゃうと誰も止められない。組織としての抑止力もゼロだったし。
かんべえ オーナーが変になって、バブル企業が崩壊する感じですか。
官兵衛 もちろん、止めようとはしたんですよ。秘書役の森蘭丸なんかが、「ちょっと御館様が変なんです。秀吉さん、あんたがいちばん呼吸が合うんだから、なんとか言ってやってください」って頼んでくるわけ。でもさ、秀吉はイエスマンだから、結局何も言えないの。
かんべえ 信長がそんなふうになった理由はなんだったんでしょう。
官兵衛 僕ははね、殺し過ぎたんだと思うんだな。あの人は叡山焼き討ち、伊勢一向一揆虐殺とかやるでしょ。でも彼だって人間だから、良心の呵責は感じていると思うんだ。そうすると苦しむよね。苦しいのを忘れるために、もういっぺん虐殺をやっちゃうの。それで、「こんなことはたいしたことじゃないんだ、こいつらが悪いんだ」って思うんだろうね。そうやって自己正当化を図っているうちに、暴力が拡大再生産されていく。最後の時期には恐くて、誰も面と向かってものが言えなくなっていた。

かんべえ それでも、織田家の快進撃は続いていた。
官兵衛 ある時期からの織田家は事業部制になって、羽柴、明智、柴田、丹羽、滝川といった子会社が競争しながらどんどん成長するのね。でも、親会社の社長は狂っていて、自分がいつクビになるか分からない。そういうとき、子会社の社長はどうすると思う?
かんべえ ・・・・分かりませんね。
官兵衛 自分だけはやられたくないから、やられ役を作っちゃうの。つまりイジメだね。信長の怒りが爆発しそうになると、「悪いのは全部こいつです」とみんなで口裏を合わせてしまう。そうしておけば自分自身は無事だからね。
かんべえ 犠牲になったのが光秀であったと。
官兵衛 そう、彼は典型的ないじめられ役だったの。信長がひとりで怒り狂っているときに、なーんとなく光秀がスケープゴートになってしまう。そういう雰囲気作りは、秀吉がいちばん上手だったよ。小さな頃にいじめられた子供は、大人になってからそういう勘が働くのね。
かんべえ それじゃ光秀はたまりませんね。
官兵衛 そう、最後の頃には、「俺はこのままじゃ殺される」と思ってただろうね。

かんべえ それじゃ、官兵衛さんなんかは、光秀の裏切りはうすうす感じていたんじゃないですか?
官兵衛 感じてなかったといったら嘘になるね。というより、信長が死んだと聞いて、織田家の部将はみんなほっとしたと思うよ。正直なところ、最後の頃はみんなが戦々恐々で、「誰かなんとかしてくれ!」って感じだったもの。光秀の謀反に内心、拍手を送った部将は少なくないと思う。
かんべえ 言葉は悪いですけど、彼は家臣団を右代表して手を下しちゃったというか。
官兵衛 そう。光秀の気持ちになるとね、信長を殺せばみんなが拍手してくれると思ってたんじゃないかな。でもそれって甘いよね。自分の主君を殺した人間は誰にも信用されない。そういうことって、実際に手を下してみると気がつくんだよね。本能寺の後の彼の行動は明らかに変でしょ。非常に中途半端な行動を続けて、まるで自滅するように死んでしまう。
かんべえ なんだか光秀が可哀相になってきたな。

官兵衛 そういう罪悪感は、当時の織田家の部将はみんな感じていたと思うよ。「あいつ馬鹿だなー」なんていいつつ、まあ、でも取りあえず自分が助かって良かったな、って。
かんべえ そういう計算をしていた官兵衛さんも結構ずるいというか。
官兵衛 たしかに、ついに光秀が動いた、という情報を得たときは、立ち込めていた雲が消え去ったような気がしたな。高松城で毛利軍と対峙していたけど、彼らは最初から戦う気なんかなくって、お互い八百長試合もいいところだったからね。吉川、小早川とはツーカーの意思疎通ができていたし、僕らはいつでも好きなときに席を立つことができた。僕らはついてたんだ。
かんべえ 聞いててだんだん腹が立ってきたな。やっぱり本能寺の変は秀吉が仕組んだんじゃないの。
官兵衛 そういうなって。その後の「中国大返し」から山崎の戦いのプロセスは、やっぱりギャンブルだったからね。もちろん、負ける気は少しもなかったけど。
かんべえ 秀吉と官兵衛さんは、相当に腹黒いことを相談していたんですね。
官兵衛 あははー、でもね、秀吉と僕のコンビは、当時の日本では掛け値なしに最強だったと思うよ。二人で知恵を絞って強敵に打ち勝っていくという体験は、強烈な快感だった。・・・・それに、君だってこういう話は、まんざら嫌いでもないんだろう?



<4月5日>(水)

○かんべえさんと官兵衛さんの戦国時代問答は、3日間にわたって続けられました。二人の間には、若干の余熱が残っているらしく、昨今の状勢に関しての雑談が続いています。

官兵衛 ときに今度はこっちから聞くけど、僕が戦国時代の話をしている間に、この時代では総理大臣の交代があったんだね。本能寺ほどではないが、最高権力者の無力化という一種の異常事態が発生した。ところが乱世になるという感じでもない。これはどういうことだい。
かんべえ 小渕前首相が倒れたのは4月1日の夜。それが4月5日には新内閣発足。「中3日」で処理したわけですが、うち1日は事実を隠していたから本当は「中2日」でした。危機管理としては上出来の部類で、個人的には久々に「自民党という知恵」を感じましたね。現にこの間の株価は、ほとんど政局とは無関係でした。

官兵衛 それで次の政権はちゃんと機能するのかな。どうも簡単すぎるように感じるけど。
かんべえ 今回の事態を本能寺の変に置き換えれば、せいぜい清洲会議が行われたあたりでしょう。やっぱり戦争をやらなければ政治は安定しません。現代日本では戦争をしませんから、代わりに選挙をやって決着をつけます。選挙で勝てば森政権は認知を得ますし、負ければ他の人に取って代わられるでしょう。
官兵衛 だったら早くやったほうがいいな。
かんべえ 新聞紙上では、解散・総選挙は近いという見方がもっぱらです。
官兵衛 戦争でも選挙でもいいが、天下を取るときはちゃんとライバルを倒して、自分の正統性を立証しなければならないね。リスクを回避してちゃ、権力は安定しないよ。

かんべえ ところがホンネの話、政治家は選挙が恐いんです。森さんも「ノミの心臓」で解散を先送りするという説もある。
官兵衛 政治家のことは知らんが、戦国大名が戦争を逃げちゃいかんね。この世界は、いつも戦い続ける、ということが大事なんだな。織田信長が戦国時代の勝利者になった理由が分かるかね? 勝っても負けても、しじゅう戦争をしていたからさ。武田や毛利なんて、勝てるいくさだけ選んでやっていたから、織田家の脅威にはならなかった。
かんべえ ほほう、武田、毛利はいくさが足らなかった、と。
官兵衛 だいたい彼らは、ロジスティクスの概念を知らなかったから、大規模な遠征軍を組織できなかった。しかし織田軍団はいつも各地を転戦して、細かな無数のノウハウを蓄えていた。そこの違いが大きい。

かんべえ 今の話を現代に置き換えてみると、いつも選挙を戦うことが政党を強くするということですね。思い当たることが多いなあ。自民党の中でも、これまで武闘派といわれる集団が権力を握り、リーダーを生み出してきた歴史がありますしね。あ、そういえば企業だって競争がなければ駄目になりますわな。
官兵衛 戦うということは、人材を育てる上でも大切なことなんだ。勝ちぐせをつけてのしあがるか、敗北から教訓を得るか、いずれにせよ戦わないことにはリーダーは育たない。
かんべえ 現代はリーダー不在の時代などといわれますが、それは政治家が「君子の争い」をしたり、「相乗り選挙」をやっているからかもしれませんね。
官兵衛 そういうところは戦国時代を見習ってください。
かんべえ 最後は『プレジデント』の対談みたいな落ちになりましたな。
官兵衛 あははー、ところで誰がこんなもん読んでるんだ?



編集者敬白



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