黒田官兵衛について







黒田官兵衛孝高。号は如水。戦国時代の武将である。播磨の国の豪族、小寺氏の筆頭家老の家に生まれた。織田信長が天下に勢力を伸ばしつつあった当時、毛利氏征伐を命じられた羽柴秀吉に惚れ込み、中国地方攻略担当のストラテジストを買って出る。早世した竹中半兵衛と並び、秀吉の名参謀としてその名を残した。のちに「黒田節」で有名な、筑前・黒田家の家祖となる。

官兵衛がもっとも有名なのは、その知謀というよりは挫折体験にある。摂津の荒木村重が信長に謀反を起こしたとき、危機感を抱いた官兵衛は単身で説得に赴く。村重が毛利方につけば、播磨は孤立してしまい、主家の小寺も毛利方についてしまう。だが冷静に考えれば、村重が「はい、そうですか」と考え直すわけもなく、最悪殺される可能性まであった。官兵衛はそれを承知で伊丹城に乗り込み、案の定幽閉されてしまう。

荒木村重が織田軍のろう城に耐えている間、官兵衛は日も射さぬ狭い牢獄で、身体を動かすこともままならずに暮らすことになる。このためについには肉体的な不自由を得るに至る。牢獄には窓があり、そこからは藤の花が見えた。それだけが心の支えだったという。救出されて九死に一生を得た官兵衛は、藤の花を家紋とし、終生の教訓とする。この間の事情は多くの歴史作家の共感を呼び、吉川英治の『黒田如水』、司馬遼太郎の『播磨灘物語』などが描いている。

官兵衛の功績として、秀吉に「高松城水攻め」を提案したという話が残っている。ただしこれは秀吉みずからのアイデアであったという見方もあり、司馬遼太郎などはその解釈をとっている。たしかにこんな突拍子もない作戦は、「墨俣の一夜城」など土木工事の天才だった秀吉が、自分で発想したと考えた方が自然であろう。官兵衛の真骨頂は、より常識的な判断力にあった。

官兵衛の知恵がもっとも光り輝いたのは、「本能寺の変」後の危機管理にある。「光秀謀反、信長死す」の報に呆然とする秀吉の耳元で、官兵衛は「これぞ殿の天下取りの好機」とささやいたという。秀吉のことゆえ、一夜明ければその程度のことは気づいたかもしれない。だが、秀吉の「中国大返し」から山崎の戦に至る一連のファインプレーは、官兵衛の好判断がなければ実現しなかっただろう。

官兵衛が秀吉の天下取りに重要な働きをしたことは、当時から衆目の一致するところであった。そのわりに官兵衛が得たのは、豊前の十二万石に過ぎなかった。太閤秀吉に対し、さる人が「なぜに官兵衛殿をあのような地位に止めておかれるのか」と意見したら、「あいつに百万石も渡してみろ。天下を取られてしまう」と言ったという逸話が残っている。秀吉の見るところ、官兵衛は単なる参謀に満足しない野心家であったのかもしれない。

朝鮮出兵の頃には秀吉の寵愛はうすれ、官兵衛は完全に干されていた。そのことには大変不満だったようだ。前線から悪い報告が次々にもたらされたとき、大きな声でこんな独り言を言ったらしい。「だいたいこれほどの戦をするのに、総大将に人を得ていない。こんな戦を仕切れるのは、徳川家康殿かこの黒田如水軒があるのみである」。――いくらなんでも、これは不用意な発言である。周囲は聞こえない振りをしたそうだ。

黒田官兵衛は、「天下もっとも多きは人なり。もっとも少なきも人なり」という言葉を残している。人間は多いけれども、人材と呼べるほどのやつはめったに居ない、と言いたかったのであろう。頭のいい人にありがちな癖で、他人が阿呆に見えてしょうがなかったのかもしれない。そういう意味の自己顕示欲は強い人だったようだ。

そうかと思うと、またあるときには、「臣はそれ、中才のみ」と語ったという。謙遜とプライドがまざったような物言いではあるが、「評判ばかり高いようだけど、私の才能はまァ中くらいってとこかな」、と他人事みたいに言えてしまうところがこの人らしい。戦略家というものは自己認識が冷静なものなのだ。

私生活はたいへんな「始末屋」というか、要するにけちだったそうだ。ある人が官兵衛に金を借り、返しに行ったときの逸話が残っている。鯛を手土産にしたところ、官兵衛はすかさず台所に細かな指示を出す。「今すぐ3枚におろして表はすぐここへ出せ。裏は酢に漬けて取っておけ。骨は・・・」。これはエライ人に金を借りたものだと思い、早々に「いや、先日は助かりました」と金子を差し出すと、「それは受け取れません」。日ごろから金を貯め込んでいるのは、いざというときに使うためですから、と語ったという。

関ケ原の戦いで日本全国が東西に分かれたとき、官兵衛は人生最後の勝負に出る。それまでに貯え込んだ財産を投げ打ち、浪人を集めてにわか軍勢を作る。周囲の国はほとんど軍勢が出払っていて空白地帯だったのだ。黒田軍は瞬く間に薩摩・大隅を除く九州一円を制圧する。もしも中央で、徳川家康VS石田三成の戦いが膠着状態になれば、九州の第三勢力はキャスティング・ボートを握るおもしろい存在になった可能性がある。官兵衛の構想は、諸葛孔明ばりの「天下三分の計」だったのかもしれない。

しかし官兵衛の読みは外れ、関ヶ原の戦いはわずか一日で終わってしまう。結果は東軍の「地滑り的勝利」となった。勝因を作ったのは小早川秀秋の寝返りであり、それを工作したのは官兵衛の息子、黒田長政であった。その結果、長政は筑前五十五万石を獲得する。官兵衛は中途半端に出来がいい息子が不満で、誇らしげに戦勝を報告する長政に対し、わざとらしい嫌みを言ったという。

とはいえ、根が善人なせいか、官兵衛の晩年はのどかなものとなった。博多の城下町の子供たちを相手に、静かな隠居生活を楽しんだ。「人は欲さえなければ、先の事は見通せるものだ」といいつつ、自分が死ぬ時間まで予測して見事に当ててみせた。この辺はあっさりしたもので、一時は天下取りに色気を見せたとはいえ、本質的に無欲な人物だったのであろう。

戦国時代というのは個性豊かな人々が活躍した時代である。官兵衛の役どころは名脇役といったところだろう。参謀タイプではあったが、諸葛孔明的な人物ではない。失敗もするし、忠誠心もそれほど高くない。それでも天下の情勢を語らせれば、いつでも周囲が「うーん」と唸るような鋭い分析を聞かせてくれただろう。彼が書き残した文書が少ないのは残念なことである。

官兵衛という男は、少し目立ちたがりなところを我慢すれば、つきあって楽しそうな人物である。戦国時代には魅力的な人物が多いが、だれか一人といったら官兵衛がいちばんだろうと、「かんべえ」は思っている。

編集者敬白




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