退職のち放浪 ライブ(9)

温泉へ行こう 北京編B

もうバスタブには2週間近くつかっていない。

貧乏放浪をすると、宿にはシャワーしかない事が多い。しかも大抵は「これなら冷たくないでしょ」という程度で全く熱くない。決してくつろぐ場所ではない。

昔、ツムラの宣伝で、「日本人には風呂がある」というコピーがあった。

日本人にとっては、幸せをもたらす大事な箱だ。できれば入りたい。

銭湯へ

韓国や台湾と違い、何故か北京の人はあまり銭湯には行かない。街中に浴槽もサウナもあるにはあるが、決して人気のスポットとは言いがたい。聞けば、お湯が相当汚いらしく不人気ということだった。

それでも私は湯船にザバッと入ってみたくなる。そこで宿の近くの銭湯へ行く事にした。

入湯料は15元。210円である。中国にしては安くはない。もちろん場所によっては5元というところもあるし、68元なんていう高いところもある。

この店の主人らしい受付の女性にジェスチャーを使って垢すりもお願いした。韓国だけでなく、中国にも垢すりのサービスがあるという事は知っていたが、メニューらしき一覧表を見てもどれがどれだかさっぱり分からない。ふと気がつくとフロントのソファーに待機しているスタッフの二人は小姐だった。こちらを見ていかにも興味津々という感じだ。

実はこの銭湯、ほとんど外国人は来ないのだ。15元という金額的にも、また団地街にある銭湯なので場所的にも外国人には向いていない。その珍しさに加え、秦の始皇帝に似ているという私の風貌がきっと彼女達を魅了しているに違いない。

もしかして、もしかして、垢を擦ってくれるのは小姐?という思いがよぎった。これは特別な下心ではなく、普通の男心と思うが、念の為、解説しておきたい。

垢すりを体験された方は分かると思うが、マッサージ台に全裸で横になる。タオルで覆わない。そして大抵は仰向けからスタートする。銭湯で全裸になるのは当たり前なのだが、台の上となるとまじまじと見られる事になって、慣れていない場合、結構恥ずかしい。

フィリピンでは、特別なサービス無しに、普通に女性がやってくれるという。

15年前に訪れたハンガリーでも似たようなサービスがあった。100キロ以上の巨漢の男にやってもらった時には実にビビッてしまった。当時の東欧にはホモがとても多く、既に私は温泉でホモに遭遇していたのだった。

他の客がいなくなり、二人だけになった時の恐怖は今でも覚えている。以後垢すりをしてもらうたびにその時のトラウマがよみがえるのだった。

また局部の辺りを擦られると、立ってしまう事もある、鳥肌が…。

さてさて、と思って奥へ行くと男湯・女湯にしっかり分かれていて、男湯には男性スタッフが数人控えていたのであった。杜甫々…。

この銭湯には日本の様な大きな角型の湯船ではなく、スポーツクラブにあるような円形の数人入れるジャグジーが3つあった。ボコボコとジェットの泡も出ているのでなんとなくせわしく、“まったりとつかる“という感じではないが、久々の湯船で気持ちが良い。

やっぱり日本人には風呂がある。

さて、十分に温まった後は垢すりだ。

結局、ハンガリーの男に比べたら半分くらいの男が垢を擦ってくれる事になった。

擦ってはお湯をかけ、擦ってはお湯をかけてくれ、その度にお湯がしみて気持ちが良い。

擦ってもらう時にぱらぱらと台に何かが落ちる音がしていて不思議だったが、仰向けからうつ伏せになる時にわかった。まさに自分の垢だった。

驚きを通り越しておぞましいものだった。

ずっとシャワーだったので、適当に石鹸を体にこすり付けて洗っていた事が多い上に、辛い中華料理が美味くて連日食べていたものだから新陳代謝が促されたのだろう。人生でももっとも多くの垢を排出した気がする。

終わった後は肌がピカピカになり、何だか一皮向けたみたいだ。

更衣室に戻ると、男性のスタッフが丁寧に体を拭いてくれる。これも何だか気まずい感じがするが、人件費の安い国ならではのサービスなのだろう。

銭湯を出て、季節柄そよぎ出した秋風にあたると、ひんやりと柔らかく刺す感触が妙に面白かった。

因みにこの垢すりの値段は20元(290円)である。

お宅訪問

たまたま中国人のお宅に招待される機会があった。

この中国の方は37歳。数年前に結婚をし、現在1歳1ヶ月の赤ちゃんがいる。男の子だ。最近北京郊外にマンションを買ったという。北京の中心部に位置する天安門から大体20キロくらいの場所の経済開発区にあるマンション群の1つ。その場所は5年前には何も無かったらしい。

北京は現在急拡大中で、人口も増えていて、マンションも次々に建っているという事だった。

因みにそのマンションは、将来すぐ近くに地下鉄が通ることになっているにもかかわらず、北京市内の半額くらいだという。1uあたり4500元(64,000円)である。彼の家は130u程度なので、830万円だ。

夫婦ともども旅行代理店にお勤めで日本語が達者だ。最近ではそうでもない様だが、ちょっと前までの旅行代理店は、ごく普通のサラリーマンの2〜5倍の給料をもらっていたらしい。所得格差は日本とは比較にならない。

高収入業種でダブルインカムだからこそ、このマンションを買えたという事は否定しなかったが、北京市では、中流のちょっと上という程度とのこと。これは謙遜ではないみたいだ。現に似たようなマンションは道々、数多く建設中だったし、北京市内でも多く見かけた。16年前とは違い、おびたたしい数の中産階級が増えているのだ。

タクシーに乗り20-30分でそのマンション群に着いた。東京の高島平をオシャレにした様な作りで、次々と造成されている。分譲した資金で次を建てるそうだ。中には30階建ての高層マンションもある。その棟の多さからして、1万人以上が住む地域になるのはそう遠い先ではなさそう。中には日本人が設計したというマンションまである。

“自然より開発”という北京では、あまり緑が豊富ではないが、ここのマンションには緑が目立つ。そして市内の様に埃っぽい事はない。また車はマンション群の外に止める決まりになっていて、建物のすぐ近くまでは来ない。

また分譲されたマンション群には塀があり、幾つかあるゲートにはすべて警備員がいてセキュリティ万全だ。

子供を育てる環境としてはまったく申し分ない。

屋内に入っても驚いた。広いダイニングキッチンには1メートル以上の水槽が置いてあり、色とりどりの小魚が泳いでいる。「安かった」と言いながら、2500元(36,000円)だ。また大き目のテレビにはDVDやシアターシステムが接続されている。そして奥には客専用のトイレとシャワールームがあった。

ダイニング以外に部屋は3つある。子供部屋、寝室、書斎だ。まだ1歳1ヶ月の赤ちゃんに8畳くらいの部屋が用意されているのは一人っ子政策の賜物だ。100日のお祝いには、写真館に頼みアルバムを作っている。これも数百元はするという。おもちゃも豊富だ。如何に子供が愛されているのかがよくわかった。

書斎には当然のように液晶のPC、革張りのチェアー。読書家らしく、数多くの本が壁一杯の本棚に並んでいる。日本語の本も多い。

軽くめまいを覚えた。何から何まで既に日本の標準に近い。いや、聞けなかったが、彼はマンションをキャッシュで買った可能性がある。最近中国でも住宅ローンができたらしいが、まだまだその仕組みなどは一般的ではないらしい。

おまけに、人件費が安いからお手伝いさんまでいる。その18歳の女の子は、地方から出てきていて最初は育児も料理もできなかったらしいが、教えると綿のように吸収してくれ、今では欠かせない存在らしい。その為、奥さんは育児で疲れるどころか生き生きとしていた。

この中国人夫婦には既に日本並み、いやそれ以上の物質的な豊かさがある。それを指摘すると、本人は「だからといってそれは幸せとは別の事」と割り切った回答をした。それはそうだと思う。

幸せの様子が世界中でどうなっているのか知りたいと思うから私は放浪している。

ただマルクスが言うように、【社会の物質的な要素が我々の考え方を決定している】状況の中で【下部構造】に位置される【労働者を動物にしている】という事例が、皮肉にもこの中国にこそ散見されてしまっている。加えて強烈な拝金主義が、金持ちでない人々を精神的にも幸せにしていない気がしてしまうのは私だけでないはずだ。

旦那の方はもうすぐ旅行代理店の仕事を辞めるという。1〜2年じっくりやりたい事を考えるという。「子供はまだ小さいし、その程度の期間なら、贅沢をしない限りそれなりの蓄えがあるので大丈夫」、加えて「何しろ、妻が働いているから何でも無い」と彼は笑う。私の放浪は自分探しの旅ではない訳だが、彼がしきりに共感してくれている訳がわかった。

しかし「中流のちょっと上」のこの夫婦は、その【労働者を動物にしている】状態を避けられているが、一人っ子政策が続く限り、残念ながら赤ちゃんには弟もしくは妹はずっとできない。

「だからといってそれは幸せとは別の事」という彼の指摘の端的な例かもしれない。

北京の温泉

いよいよ温泉に行く事にした。

北京の温泉は2ヶ所あるらしいとインターネットで調べがついていた。

1つは北京駅に程近い“新橋ホテル”の地下にあるらしい(新橋の橋は正確には“にんべん”。日本人はそのままシンバシと呼んでいる)。

もう1つは北京から25キロ北に行ったところにある。

前者の方は、地の利に加え、馴染みのある新橋という名前、そしてこの温泉のおかげで日本人ビジネスマンに人気があるホテルだ。北京貴賓楼飯店の様なトップクラスは5スターだが、このホテルは4スターとなっている。ただしそれでも500元(7150円)程度で、当然私は泊まれないのであった。

この新橋ホテル、各部屋の風呂も温泉らしいが大浴場も地下にある。宿泊すると無料で使用できるが、温泉だけだと料金は98元+サービス料で、合計1500円近くになってしまう。

インターネットでは“それなり”の温泉らしい。

日本人の間ではそれほど良い評判ではない様だ。では中国人の間では、という事が知りたくなるが、そもそもあまり行かないらしい。値段が高いし、大衆浴場にはあまり行かないという事が影響しているのだろう。結局大浴場に入るのは日本人くらいらしい。

躊躇した。1500円っていうと、日本のほとんどの温泉に入れてしまう。また中国の物価にしてみると、感覚的には1万円以上のインパクトがある。またもや、あの麻婆豆腐が10皿食べられてしまう値段だ。

数日迷っていると、北京市にもう1つ温泉があるという情報を得た。京瑞ホテルという5スターのホテルの中だという。インターネットで調べると、日本のページには1つも出てこない完全な穴場だった。値段、設備、システムなど全くわからないがともかく行ってみる事にした。

外はどしゃ降りで道路は渋滞。運良くタクシーは直ぐに掴まえることができたが、京瑞ホテルを知らないという。5スターのホテルにもかかわらず。

3台目でようやく知っている運ちゃんに出会ったのでようやく乗る事ができた。温泉に入る前に、すっかり酸性イオンにまみれてしまう私であった。

肝心の京瑞ホテルは北京の中心部から南に20分程度の場所にある。因みに一泊100ドルだ。

温泉はこのホテルの3階にあるとフロントで教えてくれた。行ってみるとスポーツクラブと書いてある。

「温泉に入りたい。幾ら?」と受付で聞いても要領を得ない。どうも温泉だけの利用というのは想定していないらしい。パンフレットを見るとホテルの客か、会員だけだという事が分かった。因みに一年間の会員料は5800元(8万3千円)である。

だんだんと様子が分かってきたので、

「体験させて!」とお願いする。

すると施設を案内してくれた。ホテルの建物の中には珍しく25メートルはあると思われるプールがあった。温泉水を使っているという。二人の客が気持ちよさそうに泳いでいた。なるほどプールにしては結構温かい。しかし残念ながら海水パンツは宿においてきてしまった。

う〜ん、このままでは帰れない。

もしやシャワールームにもあるのでは、と思って行ってみると、案の定ジャグジーとして温泉が使われていた。2つあるジャグジーの左側が温泉だ。確かに色が黄色い。何でも鉄分を多く含むらしい。さすがに口に含む事ははばかれたが、温泉である事は確かなようだ。

ただ、開放感はなく、せっかくの自然の恵みが人工的な施設に閉じ込められてしまっていて、残念ながらそれほど気持ちの良いものではなかった。

まあ無料だったから良しとしよう。

 


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