退職のち放浪 ライブ(10)

モンゴル編 @

朝6時に起きて北京駅に向かった。

旅立ちにふさわしい快晴だ。朝早い為か空気がとても澄んでいる。

北京では、2006年まで徹底的に工事を行い、その後の2年間は工事をしないで2008年のオリンピックに備える、という話を聞いた。

真偽はともかく現在の北京の空気はとても悪い。その空気が澄んでいるのはちょっとした驚きだ。

北京駅

駅ではまず荷物をX線で検査する。割と厳重だ。

その次には荷物の重量をチェック。これは私の場合何故か省略されてラッキーだった。

実は国際列車に乗る場合、荷物に制限がある。一人35キロまで。私の荷物は列車の中で取る水と食料も積んでいたので、多分40キロ弱のはずであったが助かった。これは恐らく、チケットがソフト座席の為だと思う。座席には、ハード、ソフト、デラックスと3つに分けられていて、ソフトは778元、11100円だ。

中国人とモンゴル人の多く、そして貧乏旅行者は大抵の場合、ハードにする。そして一部の人は買出し列車よろしく、中国で大量に仕入れてモンゴルやロシアでさばくので、どうしても荷物が多くなる。これに対する制限なのかもしれない。

私は言葉が分からない為というのもあるが、どうも中国語でがんがんやられると調子が悪くなるので貧乏旅行者だがソフトを選んだのだった。確か千円くらいしか変わらないはずで、一泊分が浮くのだからまあ良いだろうと思ったのだ。

切符には8号車、コンパートメントNo.1、座席No.1と書かれていたが、8号車に行くと、コンパートメントNo.6に案内される。最初は何だか分からなかったが、通常No.1は、車掌が使うらしい。車掌は各車輌に2名ずついて、交代で24時間営業みたいだ(ただ結構暇そうなのである。彼らは列車の中で自炊する。トントンとまな板で何かを切っている音がしたり、妙においしそうな匂いが漂ったりするのであった。どうせなら、マッサージ小姐を乗せて欲しいものだ)。

ソフト車輌はとても空いていて、一つの車輌に8個あるコンパートメントが埋まったのはたったの3つだけ。つまり私は4人乗りのコンパートメントを一人で占領できたのだった。

(声を出して歌えるのは嬉しい!)

朝早かったので、ホームで駅弁を買おうと思っていたが、そんな物は売っていなかった。

商売上手の中国人にしては何てことだ。ちょっとしたワゴンが出ていたが、食べられるものは、カップ麺とまずそうなパンしかない。朝食はあきらめて仕方が無くジュースを2本買った。

1本は何とはなしに車掌さんにあげた。このジュース1本4元(65円)が、後で恐るべき効果を生むということはこの時点で知るよしもない。

モンゴル行きの国際列車

7時40分、ディーゼル+14輌の列車は定刻の通り北京駅をすべるように発車した。

コンパートメント内はとても快適だった。ベッドは左右にあり、中央には小さなテーブルがある。窓は大きく、上半分は開くようになっている。上段のベッドは昼には斜めにすることでコンパートメントの空間を確保するようになっていた。ドアを閉めれば大き目の鏡が現れ、鍵も掛かる。下段のシートの下は荷物が格納できるようになっており、それぞれのベッドには小ランプが点灯する。とても機能的だ。

込んでいる時には、上段のベッドを使用する時間が決まっているらしいが、今回は私一人の為にそんなルールはない。

コンパートメントの仕組みをチェックした後は、早速車内の探検。

ソフトとハードの車輌は半々ぐらいだろう。ハードは結構込んでいる。ハードも4人掛けなのだが、コンパートメントは1車輌に9個あり、8個のソフトよりも若干狭い事になる。

一方デラックスは2輌あった。ワインレッドに塗られた上品な車輌だったが2グループほどしかいなかった。またコンパートメントの定員は2名らしい。

食堂車

この国際列車には、もちろん食堂車も付いている。何しろ北京からウランバートルまでは30時間も掛かるのだ。

朝食にありつけなかった私は、早速食堂車に行った。椅子に座って待つこと3分。サービスの質を確認するためにあえて待ってみた。

何故か食堂車で偉そうに座って無駄話をしている何号車かの車掌は、ときどきこちらを見るのだが、私が待っていることをウェイトレスに伝えない。そしてそのウェイトレスは、後ろを向きながらぼんやりしている。

中国政府が市場原理を導入しても、ちょっと寡占市場になるとこんな風に怠けやがる。仕方が無いのでこちらから出向き、メニューを持ってこさせた。

しかし、ホームの駅員も、このおばちゃんも、全く愛敬が無いのはなぜだろう。歴史的に何か原因があるのだろうか。人間なら少しは感情が出るだろうに…。何か学者の説があるなら是非読んでみたいものだ。

数日前に自宅に招待してくれた旅行代理店の彼も、中国のサービス業はまだまだ日本から学ぶべきことはとても多いと言っていたが、是非【スマイルゼロ円】から始めて欲しいものだ。

ちなみに王府井のマックでは【スマイルゼロ元】はメニューに無かった。

さて話を戻そう。

メニューには5品目くらいしかなかったが、すべて高い。

私が頼んだものは、

・ピーマンと、鶏肉、玉ねぎの炒め物:25元 (因みに量は少ない)

・ビール:5元

・白飯:1元 (因みにべとべと)

の31元の昼飯。440円なり。

加えて、なんとビールが冷えていない。冷蔵の倉庫があるにもかかわらずだ。もう16年前じゃあないのだ。何てことだ。これは早速オリンピック委員会に言いつけなければならない。

加えて、一回一回テーブルクロスを取り替える事になっているのか興味があったが、そんな考えは不要であった。取り替えるどころか、前の客が撒き散らしたご飯粒さえ片そうともせず、その上に皿を置く。

中国の通貨【元】は、本来、国外へ持ち出し禁止になっているのだが、私は車内でもご飯を食べるために少し余裕を持たせて列車に乗っていたのだった。しかしこんなんじゃあお金が余っていても二度と来るもんか!

カレーパンとカレーラーメン

乗車してから9時間後、【集寧】という駅に着いた。

食堂があんなんだから、ここでパンとカップラーメン、中国の酒(50度!)を買った。

実は、北京でカレーを作っておいたのである。

話は前後するが、まずその辺りから。

北京の宿では、調理が可能だった。

宿から10分くらい東に行った場所に大きなスーパーがある。イトウヨーカドーみたいな大型スーパーだ。大勢の人で賑わっていた。

肉屋さんでは大きな中華包丁を持った店員が何人か並んで肉をさばいている。ここで豚バラ肉を300グラムほど角切れにしてもらった。そして野菜を選び、キノコを買う。

残念ながら、カレーのルーは売っていなかったが、粉末のカレー粉はあった。

宿へ帰り、このカレー粉を開けてみた。一応2種類買ったのが2種類ともに何だか薬草もしくは漢方薬の匂いがして全然うまそうじゃない。味もまずい。ただこんな事もあろうかと、ビン入りの唐辛子ソースみたいなやつを買っていたのだった。入れてみると、ちょっとエスニックではあるものの、あっという間にカレーに近いものになり、こんな事もあるのだと驚いた。

翌日、熟成したカレーに、さらにヨーグルトを混ぜ、見つけた日本のカレールーを3分の1ほど入れて改めて煮込んでおいた。

こうして作ったカレーの残りを台湾で買ったジップロックに入れて、2食分列車に持ち込んだのだった。

今日の夕食はカレーパン。明日の朝食はカレーラーメンだ。

車輌にはそれぞれ湯沸かし器が置いてある。90度近いお湯が得られる。その上部にカレー入りのジップロックを置く。車輌にカレーの美味しそうな匂いが充満するが、味もむちゃくちゃ美味しい。

中国で入った超高級喫茶店で買ったお茶の残りもこの列車で役に立った。ふた付きのマグカップ(19元、270円)を北京で買っていたので、この湯沸かし器のお湯を注ぎ、緑茶の葉を入れる。葉が全て沈んだ頃、草原を眺めながら飲むお茶は最高だ。

夕焼け

中国の田舎の風景を飽きずに眺めていた。

【集寧】を過ぎると大きな町はほとんど無く、草原が続く。

そして徐々に馬や牛、羊が多く目につくようになっていた。

既に中国の内モンゴル自治区に入っていて、農作業や歩いている人もいるが、民族的には漢族ではなくモンゴル人だ。

内モンゴルでは縦書きのモンゴル文字がまだ残っている。小さな町を通ると、時々看板などで車窓から見ることができる。

聞くところによると、文字は残ったが言葉は中国語になってしまったという。一方、これから行く外モンゴルでは、言葉は残っているが、モンゴル文字は消え失せ、ロシアのキリル文字が中心だ。

そしてイルクーツク辺りのロシアにもモンゴル民族がいるはずである。きっと文字も言語も無くなっているはずだ。

歴史的な背景はいろいろがあるが、モンゴル民族というのは分断された民族といえる。そんなことを考えながら車窓を見ていた。

夕日がきれいだった。

風力発電の羽がゆっくりと動いていた。

二連浩特の街

もうすぐ21時になろうという時、列車は中国−モンゴル国境の中国側の駅【二連浩特】に着いた。日本語ではニレンホト、中国語ではアーリェンホト、モンゴル語でエレンホトというらしい。因みに、“ホト”とは町というモンゴル語だ。

車掌が事前に配っていた健康調査表がまず回収される。次に出国審査がある。最後に通関だ。この一連のプロセスをそれぞれの担当官が列車の中で行う。その間、約40分あまり。

終わった人から次々にホームに降り、駅の出入り口から街へ出ている。私の車輌は最後の方になってしまった。

車掌に「何時に戻れば良いの?」と聞くと、「23時には必ず戻ってきてね」と言う。

一連のイミグレーションが終わってから、さらに2時間弱待たされるのは、ここで車輌の台車を変更するためだ。

中国の標準軌は日本の新幹線や、京浜急行と同じ1,453mmだが、モンゴル鉄道はロシアと同じ1,528mmの為、列車は台車を交換する必要がある。車輌は【二連浩特】に着き、人を降ろした後、倉庫で台車を交換するのだった。

乗客達は駅を出て、周辺のお店に次々と入っていく。コンビニの様な店や食堂が夜遅くでも開いているのだ。私は二連浩特の街を散歩することにした。北京と違いほとんど街灯は無い。おまけに工事中の場所が多くて歩きにくいが今回は北京以外には行っていないので田舎の事情を知りたかった。ある店では既に中国文化圏を脱して、モンゴル風だった。客とのやりとりの言葉も、これまでの中国語からモンゴル語に変わっていた。

冷やかしでホテルのレートを確認したり、テレビ塔のネオンをカメラに収めたりした後、何と銭湯を発見してしまったのである。この時点で22時過ぎ。しかし1時間弱あれは十分だ。

がしかし、カウンターまで行って欲が出た。何だかわからないが、いろいろ書いてあるメニューが眩しい。結局垢すりをお願いしてしまった。ついでに、誘われるようにマッサージも。今夜はシャワーすら無しと覚悟していただけにとても嬉しかった。

垢すりは先日行ったばかりなのにまたたくさん垢が出てびっくりだ。そしてマッサージもとても気持ちが良い。体を洗ってもらう時に、何だか分からないが特殊な粉石鹸を使う。垢すりした肌にはピリピリくるやつだ。

あと10分くらいで23時かなあと思いながら、更衣室で時計を確認すると何と23時15分だった。まずい、実にまずい…。

この旅最大の危機

体が温まって出ていた汗が一瞬で冷や汗に変わった。

あわてて服を着て外へ出る。靴を磨いてくれていたようだが、礼を言う余裕も無かった。そしてこんな時に限って、というか、既に夜が遅いためだが、タクシーが全く来ない…。

やっと捕まったタクシーに通常の2倍程度払って猛ダッシュしてもらう。駅に着くとあれだけ駅前にいた乗客が一人もおらず、さらにはあれほど賑やかだった駅周辺のお店の電気がほとんど消えている。まずい…。

祈りながらホームに走って行くと、あった。ウランバートル行きの列車だ。

ホッとして、自分の車輌じゃあないがまずは乗ろうとしたが、ドアが開かない。国境警備隊が来て何やらお前は乗れないみたいなことを言う。またもや冷や汗たらたら…。

走り回っては入れるドアを探したがどこも完全に閉まっている。こうなりゃ車輌と車輌の間に飛び乗って、モンゴルの国境で車輌の中に入るまでだ。そういう気迫で迫ると、ようやく乗せてもらえた。

自分のコンパートメントに戻ると、車掌が来て、「23時って言ったでしょ!」と厳しかった。

そして自分が乗ると、5分もしないうちに列車が発車したのだった。私を待っていたとは思えなかったが、それでも出発の時に北京駅で買ったジュースを差し入れておいて良かった、そう思わざるを得なかった。

車内では、大勢の国境警備隊によりコンパートメント内の大調査が行われていたようで、他の車輌の部屋のあちこちで荷物が入り乱れていた。通路の天井も開けられていたようだ。こりゃー自分の部屋も、私がいなかっただけにぐちゃぐちゃだろうと覚悟したが、全く手を付けていない様だった。どうもやられたのはハードの席の人達だけなのかもしれない。

中国人だろうと外人だろうと、異常にチェックが厳しい様子は彼らの片づける様子を見ればよくわかる。竜巻でも通ったみたいだ。

もしかしたら、何かのたれ込みがあったのかもしれないという事だった。

そしてそれが無ければもっと早く出発したらしい。2重のラッキーに救われたようだ。

列車が出発する歳に、国境警備隊の皆さんは一斉に敬礼するのだが、思わず私もコンパートメントの中で敬礼してしまった。助かったぜ。

モンゴル国境ザーミン・ウーデ

10分ほど走ると、モンゴル側の国境の町【ザーミン・ウーデ】に着いた。中国のイミグレは英語ができなかったが、モンゴル側の担当官は堪能だった。あっという間に終わり、私自身はもう寝てよいはずだったが、この放浪最大の危機に興奮してなかなか寝ることができなかった。

モンゴルは現在夏時間なので中国よりも一時間早い。従って日本と同じである。時計を合わせた私は、遠い夜空をいつまでも眺めていた。


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