退職のち放浪 ライブ(16)

モンゴル編 F

次に我々は南に下り、別の前線基地に行く。ここは国境までわずかに150メートルだ。緩衝地帯は1キロほどあるのだが中国側の鉄塔、中国の兵士、飼っている羊なども見える。ここでは完全に撮影禁止。基地内の小屋でミルク茶をご馳走になった。部屋は暖かいが、何でも冬はマイナス30度以下になるらしい。そして冷たい強風がその季節の訪れが近い事を知らせている。

兵士の埋葬場所

その前線基地のすぐ近くには、亡くなったモンゴル、ソ連、日本の各兵士を埋葬した場所があるのだった。

「私の知る限り、ここへ来た外国人はお前が最初だ」とバハター隊長。

司令官が「おまえは実にラッキーだ」と言った意味がようやく分かった。

車を降り、草原をゆっくり歩くと直ぐに様々な遺留品がみつかる。たくさんのヘルメット(鉄兜)、水筒、剣の鞘…。

すべてが日本品ではない。日本より犠牲が少なかったとはいえ多くのモンゴル人、ソ連人もこの地で無くなっている。

兵士は、昔の装備についての知識もあるようで、これはモンゴル品、これはソ連品、これは日本品などと解説してくれる。これらは確実に“誰か”が使っていたものだ。記念碑などとは訳が違う。戦場で多くの兵士が無くなったことは知っていた。しかし一人一人を意識した事はここにくるまで無かった。

しんみりした。

戦闘が終わっても戦場掃除という仕事が残されていたはずだ。

遺棄されたままの死体、仮埋葬死体、行方不明になったままの兵員の捜索。遺体や遺品を確認してはトラックに積み込む。どこを見ても死屍累々の眺めだったはずだ。そして未発見の遺体がこの地で寝ている。

これは後で日本大使館の一等書記官に聞いた話だが、終戦後にウランバートルなど各地で抑留されていた方々の遺品・遺骨は遺族に返還されたが、このノモンハンの地に眠っている遺品・遺骨については持ち出しが禁止されているそうだ。まだモンゴル政府-日本政府で、引き渡しの決着がついていないということだった。かれこれ2年間その交渉を行っており、ようやく先が見えてきたそうだ。その一等書記官はあと半年程度で決着するだろうと語った。

それまで遺族は、ノモンハンを訪れ、遺骨を掘り、写真を撮ってまた埋めるそうだ。「必ずまた来るからね」と言い残して…。

兵士はその辺の事情を知っているのかいないのか、私にヘルメットを持って帰れと1つくれた。ソ連製、モンゴル製でもないらしい。つまり日本の兵士が64年前にかぶっていたものだ。

24歳の彼にとってはもう遠い昔だろうが、彼もしんみりしている。



さらに進むと戦車が無残にも破壊されている。バハターさんの説明では日本軍のものらしい。じっくりと見てみたがどこの部品にも文字が無いのでわからない。ただ国境警備隊の基地内で見たロシアの戦車より小型のようだ。

圧倒的な装備と兵力を以って決戦を挑んで来る敵に対して日本軍は精神論で戦っていた面がある。203高地でおなじみの白兵戦重視だったと聞く。そして日本軍の戦車はソ連軍の重火器によってブリキ作りの構造物のようにあっけなく破壊されたという。

「ソ連・モンゴルの銃砲弾が一斉に」と言われても実感はわかないが、まさにその結果が目の前に有るわけだ。戦車には無数の穴が空いている。

対する日本軍は、ソ連の戦車にどう対抗したか。

日中40度に達する炎暑の中で水も無く敵戦車に突撃する。手には火炎瓶。これは食糧の一環としてサイダーが支給され、飲み干してもそのまま携行していたものだ。そしてガソリンを入れ、ソ連の戦車に突撃する。当初、これでかなり効果が有ったらしい。ただし戦闘後半、日本軍の火炎瓶攻撃に対して戦車に金網を張ったり、火災に強いエンジンを導入したりの強化策でソ連側は対抗した。

また日本軍の大砲は射程距離が短く、この地域特有の砂地に車輪を取られ移動が困難だった。それでもこれを使いこなす。対戦車攻撃の速射砲の射程距離は5700〜6800メートル。1000メートル以内なら確実に命中する。そのとき弾丸は戦車の壁を破って入る。圧倒的に大量のソ連戦車を、少ない砲弾で対処するには危険な賭けに出ざろう得なかっただろう。

しかし当時高級軍人にもかかわらず。速射砲の知識を知らない幹部も多くいたらしい。

結局日本軍は、敵情報入手の欠如、地域情報の調査不足、兵力装備の弱小、補給の不備、幹部の知識不足などでソ連・モンゴル連合軍に勝ち目の無い戦闘をしていた様だ。

敵の実力を軽視した関東軍司令部の作戦失敗を、ここに眠る前線の兵士が血で償った事になる。

射撃

帰路、バハターさんとバトルホイクさんで何かの話題で盛り上がっている。どうも銃の話をしているようだ。そう思っていると軍の射撃練習場で車が止った。

バハターさんが銃に弾を込め、

「ヤポン、やってみろ」という。

ポンと銃を渡されても困る。ライフルなんて初めてだ。

「なんだ、日本では銃を教えないのか。若者は軍に入らないかのか」とバハターさん。

じゃあ、貸してみろ、と言い、おもむろに3発打つ。百メートル離れた標的に行ってみると、確かに人間の形をした標的の心臓部に一発命中していた。さすがはプロ。

「打ち方はわかったな」とバハターさん。

カチャという音と共に銃弾が装着し、バーンという轟音と共に発射する。耳は「キーーーン」。

3発打ったが、標的に行ってみると一発も当たっていなかった。

しかし、打っている時には嬉しくてレジャー感覚だったが、64年前には同じような銃で殺し合いをしていた訳で、複雑な気分だ。



前線基地にもどり隊長のバハターさんに、遅い昼食をご馳走になった。前線基地には女性も働いていた。

バハターさんがおもむろに一枚の金属プレートを取り出す。楕円の長い方は6センチ程度。上下に四角く穴が空いている。中央に縦書きで『一中一一四』と漢字で書かれ、右の方に『海國字四ノ歩』みたいな文字がやっと認識できる(かなり読み辛いので違っているかもしれない)。左の方には何か書かれているのかもしれないがもはや認識できない。もしかすると、名前が書かれていたかもしれない。第一中連隊の114番兵士ではないかと思った。

「これが一体何か分かるか」とバハターさん。

「想像ですが、恐らく誰かの認識票でしょう。兵士が死ぬと、他の兵士は認識票と小指を遺族に届ける努力をしたと高校で習ったのですが、まさにその認識票かもしれない。もしそうなら、認識票がここに有るということは、遺族は、遺骨を日本に持っていない事を意味します。これは彼らにとってとても重要です」と答えた。

「じゃあ、君に託そう。是非遺族に届ける努力をしてみてくれ」とバハターさん。

彼も、これまで遺族の慰問団に付き添った経験が有るに違いない。そしてノモンハンの遺品・遺骨を持ちかえってはいけない事を知らないはずはない。しかし同じ軍人として気持ちが通じるところが有るのだろう、何とかして届けろと言っているのだろう。

私は礼を言い、その場を後にした。

宿に戻り、バトルホイクさんが、実は俺もこれをもらった。君にやろうと手渡してくれた。コインだった。片面にはデザインと共に『壹分』と書かれている。逆面には『大満州國 大同三年』と書かれていた。

日本の傀儡国家とはいえ、そういえば確かに満州“国”なのだから、通貨ぐらい有ってもよさそうなものだ。そんな事さえ今まで思った事すらなかった。これはともて貴重なものなのかもしれない。

ベテランデー

さて、10月1日は、モンゴルでは『ベテランデー』とのこと。ベテランホテルでベテランデーという偶然は面白かったが、バトルホイクさんがいるので、地元の名士が続々とホテルにやってくる。この場合の“ベテラン”は退役軍人と言う意味ではなくて、“敬老の対象”といった感じだった。何しろベテラン協会の会長さんは女性だ。国民の祝日ではないが大事なイベントらしく、そう言えばこのスンベル村の至るところで盛り上がっている。

それぞれにウオッカを持ってやってくる。モンゴルでは1つの杯を皆で回す。ウオッカをご馳走する人がホストだ。挨拶をし、「ザ・ミンデ」と乾杯する(これはこの地方独特の乾杯みたいだ。ウランバートルではこうは言わない)。さすがにベテランデーだけに飲み助が揃っている。あれだけあったウオッカがだんだんと無くなってきたので、思わず外へでてウオッカを捜し求めて戻ってきた。すると

「君はゲストなのにもかかわらず我々に振る舞ってくれるのか」と皆さん絶好調。

チョイバルサン行きのバスの中であれほど飲まされたのに、またもや墓穴を掘ってしまった。一日にあれだけウオッカを飲んだのは初めてだ。しかもすきっ腹だったのでぶっ倒れるかと思った。

彼らから色々な事を伺った。

戦争から64年経っても、やはり日本に対してのわだかまりを持っている人もいる、とのことだった。この地方ではまだロシアの影響が強く、たいへんに親ロシアの人たちで日本人というと“ちょっと”という感じも有るらしい。

スンベル村に平和の搭が立っている。そのモニュメントは2本の剣だが、モンゴルと日本が二度と戦争しない様に剣は“平行に”立っている。

また以前、NHKがこの地域を訪れ、ノモンハンを取材したらしい。ノモンハンではまだ不発弾が多く危険な地域である。ある家族のお父さんがこの不発弾で不幸にも無くなり、その家族をNHKが取材したらしい。現在、その家族はこのスンベル村を離れてしまったそうだ。

日本の暮らしぶりも話した。日本にはまだ侍がいると思っているのは世界共通だったりする。また侍とやくざが同じだと思っているらしい。やくざの歴史などあまり知らないが、取りあえず歴史をひも解いて教えてあげた。

「朝青龍は日本の国民に本当に愛されているのか?」これは何人にも聞かれた。「もちろんです」というと顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。

ようやく飲み会が終わり、一同は去っていく。ただし彼らはさらに飲み会があるらしいが…。

歴史博物館、再び



翌朝、再度スンベル村の歴史博物館に行く。中は既に見たが、実は外にも展示物がある。外には電気が無いので日中に見る必要がある(逆に中の展示物は暗すぎて日中は見にくい)。全く厄介な博物館だ。

ここにはモンゴル、ソ連、日本の大砲や戦車、飛行機の残骸などがある。日本の大砲には、『昭和十七年製造 大阪陸軍造兵部』と書いてある。しかし、この遠くの地までよくこの砲台を運んできたものだ。

日本軍の大砲は、巨大な車輪を砂に取られ足が遅い。その為、時には敵に追いつかれそうになる。その時には砂に埋めたらしい。そしてまた夜に掘り出すという事をしていたと聞く。この大砲もそんな過去があるのかもしれない。

『砲声とどろきしこの戦場に平和の法音、永久に届けよ』と日本語、モンゴル語、ロシア語で書いたプレートのある搭がある。昨日聞いた日本の2本の剣の搭だ。どうやら浄土宗総本山の知恩院が建てたものらしい。

戦勝記念碑

さて、いよいよ戦勝記念碑だ。ガイドブックには『青銅複合構造戦勝記念碑』と書いてある。55メートルのタワーで、モンゴル兵士とソ連兵士が並んで立っている。この記念碑は、ハルハ川西の高台に建っている。見晴らしは遠く、激戦地だったあたりまで見渡せる。如何にソ連モンゴル側が地理的に有利だったかを窺わせる。そして高台にある55メートルのタワーなので、スンベル村から大分離れた場所でも見ることが出来る。

地元の名士と共に車を降り、戦勝記念碑まで歩く。何故か各自の手にはウオッカが握られているのが気になった。

ひとしきりシャッターを押してさて帰ろうとすると案の定、乾杯が始まっていた。まだ午前11時である。何時の間にか缶詰や瓶詰めが開けられ、一気に宴会ムードへ。

当然、それは戦勝ムードなので敗戦国の私は結構飲まされるのであった。昨日の酒が残っていたので結構つらいものがある。

戦争の話のみならず、話はチンギスハーンへ。

高校の期末テストでチンギスハーン後の、息子達に割り当てられた国を4つ書け、という問題が出た旨をいうと、そうかヤポンではそこまで勉強するのかと皆さん上機嫌。つくづく、私は接待してしまう。

結局2時間あまりそこで宴会することになってしまった。

そしてその後、その他の数多くの記念碑見て、この戦争の跡を見る旅を終えた。実に感慨深いものだった。


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