退職のち放浪 ライブ(15)

モンゴル編 E

夕方になり、ようやく【スンベル村】に着いた。

約8時間のドライブだった事になる。チョイバルサン行きのバスと違いとても快適で楽しい。

スンベル村

このスンベル村は、旧ソ連が協力して出来た村だということだった。1980年にはソ連の食品?工場があり、またソ連兵士達もいたのでたいへん栄えていたそうだ。しかし現在ロシア人が帰国してしまい国境警備隊を中心とした村になっている。村の人口は3,300人という事だった。

スンベル村の東側にはハルハ川が流れている(ただし『ハルハ リバー』と英語で呼んでも一般に英語を理解するモンゴル人でも分からない。『ハフコル』と言うと通じる)。また村の北にホルステン川が流れている。その辺りが大激戦地だったのだ。

たくさんの数の戦争記念碑などがこのハルハ川の左側(中国国境とは反対側)に並んでいるのだが、それはソ連-モンゴル軍の最前線だった為だ。そしてそこは戦場ではなかった。

当時、モンゴルとソ連は軍事協定を結んでいて侵略された際にはお互いに助け合うという事になっていた。そしてその満州国との国境は現在の国境の位置という認識である。

一方満州国および日本は、このハルハ川までが満州国の国境と定めていた。従い、国境からハルハ川までの間がオーバーラップしてしまい戦争のきっかけになるのである。

そしておびただしい数の日本人がその地で倒れたのだ。

 

 

まずはホテルへ向かう。『地球の歩き方』には宿泊施設は博物館に併設されているホテルだけと書かれているが実際にはあと2つある。1つは軍のホテルで、この日は満室という事だった。そこでXAAH(ハーン)銀行の脇にある、『ベテランホテル』に泊まる事に。ホテルのグレードは軍、ベテラン、博物館の順。博物館ホテルの部屋は寒いが、ベテランホテルは暖かいのだった。どうやら日本大使館のメンバーは博物館ホテルに泊まるという事だった。ちょっと申し訳ない。

XAAH(ハーン)銀行にはスタッフが3人いた。バトルホイクさんは仕事の打ち合わせをするというので、オートマさんと私はスンベル村を散歩する事に。

この町は現在失業率が50〜60パーセントだという。当然町は失業者であふれていて、その一人が村を案内してくれた。

この町には老人と子供が目立つ。若者はウランバートルへ出ていってしまうそうだ。子供が多い理由は、この地方のゲルに住む子供がスンベル村の学校に通う為、ドミトリーに住んでいるのだった。

本当に荒廃している村だった。ソ連人が住んでいたらしい住居は完全に荒廃していて、ゴーストタウンみたいになっている。産業らしい産業はない。薪を集めて販売している人がいたが、荷台に一杯の薪がたったの2500T(250円)だそうだ。子供も薪集めをしていた。

唯一この地方で有名なのは養蜂だ。

オートマさんがお土産に蜂蜜を買いたいと言うので、養蜂家の家に行く。余談だが、この家には何故かウインクのポスターが張ってあった。『うるるん滞在記』でも来たんだろうか。

私も別の養蜂家から蜂蜜を買った。値段は6000T(600円)。バトルホイクさんがある養蜂家と約束していて、6月の蜂蜜をキープしてくれていたのだった。年間で1キロ生産する中で、6月の蜂蜜はわずか47キロしか取れないという事なのでとても貴重品だ。

ハルハ川

スンベル村からハルハ川までは歩いていける。ソ連-モンゴル側の岸に立つと河の向こう側が遥か向こうまで見渡せる。それは戦争時におけるソ連-モンゴル側の標高が少し高い為だ。多分20メートルくらい高いと思う。

草原なのでどこもかしこも見通しが良い。こんな場所で戦争をしたら犠牲者が際限も無く出るだろう。

ハルハ川の川岸を歩いていると、観音像と仏像があった。いずれも1メートル程度のものでプラスチック製だ。ハルハ川の対岸に向いている。そうつまり日本兵士が多く亡くなった場所だ。

ハルハ川の川幅は20メートル程度。水はとても冷たい。

11月になると凍り始めるという。モンゴル、ソ連、日本の兵士達は、ここへ水を汲みに来たに違いない。

ノモンハン戦争博物館

このスンベル村では、時間給電を行っている。以前はソ連製の石炭火力発電所があったそうだが、現在は壊れてしまっていて動かないそうだ。

我々のいた時には18:30〜23:30まで電気が得られる。ここにある博物館も事情は同じだ。従い、博物館には日が落ちてから行く事になる。

博物館の看板はあるのだが、敷地に入る入り口には鎖が掛かっている。おまけに真っ暗で足元も見にくい。日本人なら休館だと誤解するに違いないが、バトルホイクさんもオートマさんも当たり前の様な感じで中に入っていく。博物館の中はとても寒かった。

館長さんが現われ、2階の展示物を1つ1つ解説してくれた。

戦争で使われた兵器や戦闘服、英雄の写真、戦闘風景など数多く展示されている。中には日本軍のものもある。捕虜の写真も載っている。

モンゴルでは一般に次のように理解されている。その点が私の理解とは少し違うところだ。

また恥ずかしながら全く知らなかった事だが、東京裁判にはモンゴル人も二人参加しており、5時間に渡ってスピーチしたそうだ。

モンゴルでは、当時の国家予算の全てが戦争に注がれ、たいへんな財政難になったらしい(だからといって戦争終了してからも大勢の日本人を抑留し強制労働をさせた事は問題があると思ったのだが、ちょっと言い辛い雰囲気があり話題に出せず)。

ホテルの部屋は3つあるのだが、台所の裏の部屋を確保。ソ連式の住居では、釜で調理する事が多いが、釜の裏にある部屋は、その熱を利用する。暖房そのものだ。与えられた毛布の他に、念の為寝袋を使ったが、どちらかは不要なほど暖かい。

部屋は4人の同室。若き女性のオートマさんは一向に気にしないみたいだ。それどころか私の前で着替えを始めようとするので慌てて外へ出る事に。この辺の感覚は日本女性とは違う様だ。

帰って来るとなんと彼女はネグリジェ姿だった。

夜露

7時に目が覚めたので、再び散歩がてらハルハ川に行ってみる事にした。

牛乳らしき容器を忙しく運搬している人がいる。8時から学校が始まるようで子供の元気な姿目立つ。ウランバートルやチョイバルサンでは街中でたまに馬を見る程度だが、ここでは移動に大活躍しているようだった。

川では流れの静かなところでカモの群れが泳いでいる。黒に白い帯が入ったカササギが鳴きながら空を飛んでいる。このスンベルでよく見る鳥だ。モンゴル語では【シャーッカイ】というらしい。

ハルハ川はあるものの、ここはドライな土地だ。

戦争時、凹んだ湿地帯では砂を掘って染み出てくる水を布にしませて、水筒に入れたという。

また喉が渇いてやりきれなかったら身を伏せて草をなめる。夜露が降りているということだった。

その話を知っていたので、同じように草を見てみたが夜露なんてほとんど降りていない。そのわずかな水分を求めていたとは驚きだ。

国境警備隊

朝食を取った後、まずは国境警備隊のベースに行く。かなり大きな基地だ。

基地内には、『1939』と書かれた台座にロシア製の戦車が乗っている。回りには戦争の英雄達の大きな肖像画が飾られていた。完全に撮影禁止なのが残念だ。

ここのガントゥムル司令官はバトルホイクさんの友人だと言う。通常、ハルハ川の向こう岸に行くにはここで許可証をとるらしいのだが、司令官に会えるとは思わなかった。軍人らしくとても威厳がありこちらも緊張してしまう。

「おまえは実にラッキーだ」と司令官。

「光栄です」と答えるが、私だけでなく慰霊団も来ているのになあとこの時は思った。しかし実は違っていた事を後で知る。

ウランバートルで取った許可証とパスポートを提示すると、別の許可証が簡単に発行された。

早速、ハルハ川に掛かっている70〜80メートル程度の橋をジープで越えた。この辺りは土が10センチくらいであとはずっと砂地であった。さぞかし塹壕を掘るにも、テントを張るのも苦労した事だろう。

その砂地を一メートル以上掘ると湿気があるらしい。暑い時にはその砂を頭からかぶって涼をとったという。

しばらく行くと、前線基地がある。ここの隊長は【バハター】さん、24才。年長の兵士を何十人も従えているエリートだ。この地域一帯を管轄している。そして彼が案内役を務めてくれる事に。

ホルステン川を渡り、大激戦地に向かう。これまでと同じような草原のガタガタ道が、ガッタンガッタン道に変わる。時折、ビッグウェーブがやってくる。

これは日本軍の築いた塹壕だ。進む方向に対して直角にひたすら長く掘られている。当時の深さは分からないが、現在は30〜50センチくらい段差がある。段差になっている為、植生も少し違う様だ。

国境と平行して何十にも掘られている。恐らく、少しずつ少しずつハルハ川に向かって進まざるを得なかったのだろう。

十メートルかけてはすばやく伏せ、伏せると同時に砂を掘り、掘った砂は頭の前に積み上げて弾丸よけにする、と高校の時に教わった。まさにその情景が目に浮かぶ。

戦線基地@

国境警備隊の前線基地に着いた。ここは、中国国境まで約1キロだ。

そこには20メートルほどの監視用の鉄塔が立っていた。

我々は車でそこに行った訳だが、通常は馬で行くらしい。馬の方が速くて快適なのだ。

11月になると雪で覆われる。あまりに雪が深いと馬でさえも行けない。兵士は歩いて前線基地まで行くらしい。国境警備というのは実に激務だ。

この日はどんよりとした天気で、時々小雨が降るとても寒い日だった。風も強い。

まさかその鉄塔に登らせてくれるとは思わなかった。

日本人よりやや小柄で鍛えぬかれた兵士の体は、私よりもちょっぴり軽い。私の一足一足は、この鉄塔の歴史の中で最も過酷な状態だろうなあなどと、鉄の溶接を気にしながら登る。上空はますます風が強い。鉄塔が倒れたり足を踏み外したら即死だ。おまけに私は高所恐怖症だったりする。

我々は、ノモンハンで戦闘が行われた、と思っている。ところがバハターさんの説明では、ノモンハンという村は、現在中国側にあるという。そして国境警備隊前線基地から彼の言うノモンハンを遠く臨む事が出来る。

現在の国境が昔の国境でもある訳だから、ノモンハンというエリアは確かに満州国側にあったのかもしれない。

「ただ既にノモンハンと言った時には、もう戦闘地域を示すんだろうね」とバハターさん。

この鉄塔の上から見えるエリアでどれだけの兵士が亡くなった事だろう。阿鼻叫喚の世界だったに違いない。

爆撃を避ける為、日中は草の上で寝て、夜行軍することになるとも聞いた。

目だけは異常にかがやきながらも全身は喘いでいたことだろう。

吹雪きの時に行動すると方向感覚を失って同じところぐるぐると回って後に凍死する。

戦闘の間だと負傷者を救出している暇が無い。戦闘でやられた戦車がいつまでも燃えつづけていて夜になり、それを目印にして捜索するらしい。

そのシーンを具体的には想像はできないが、高い位置に立つとなんとなく理解はできる情景だ。


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