退職のち放浪 ライブ(32)

街へ行こう ポーランド編

まずは例によって、国の概要。

1.面積 :32.3万km2(日本の約5分の4)

2.人口 :約3,830万人

3.首都 :ワルシャワ(約164万人)

4.人種 :ポーランド人

5.言語 :ポーランド語

6.宗教 :カトリック(人口の90%以上)

先にアウシュビッツをご紹介しましたが、話は戻ってリトアニア/ビリニュスを出るところから。

ワルシャワへ行こう

夜の11時にビリニュスを出るバスは、リトアニア−ポーランド国境に1時半に着く。

何だか妙に厳しい。さすがにポーランドだぜ、バルト3国の様に甘くはないな、と思っていると、それはまだリトアニアの出国手続きだった。何と既に50分も経っている。

そして、2人の女性が強制的に国境でバスを降りる事に。何やら書類を係官に見せているが、どうも何か問題がある様だ。しかし、こんな真夜中に国境で下ろされても困るだろうに。

一方ポーランド側の入国は10分で終了。バスは一路ワルシャワへ。

リトアニアとポーランドの時差は1時間あって、ポーランド時間の7時到着と聞いていたが、実際には6時過ぎにワルシャワの市街地に入ってしまった。

慌ててガイドブックを取り出して、どこの宿にしようか検討するが、1つめの停車場、2つめの停車場と次々に人が降りて行って焦りまくる。

うわっどうしよう、と感じると同時にほとんどの人が降りてしまっていた。

結局私は踏ん切りがつかず…、というかどこなのか分からないので終点まで。こんなのって本当に困る。

「ここはどこ?」と聞く事の情けない事!

取りあえずここはどこかのバスターミナルらしい。しかしまだ6時半だ。辺りはまだ暗い。

取りあえず椅子に座ってガイドブックをじっくり読む事に。バスターミナルの待ち合いと言っても暖房などはなく、人が出入りするたびにヒューっと冷たい空気が入り込んでくるので辛いものがある。

さすがに175万人の大都市ワルシャワだ。調べてみると中心部に近いホテルは軒並み高い。仕方がなくまたもやユースホステルに。

ホステルに着いて、2階のレセプションに行き、宿泊のお願いをしようとしたその瞬間、おばちゃんがこちらを見ずして、「部屋はないし、ベッドもないよ」といきなりの先制パンチ。

とても込むというリトアニアのユースでさえガラガラなのだ、そんな馬鹿なと思ったが、そう言えばホステルの前に大型バスがあった。どうやら、ポーランドの田舎の中学生がワルシャワに来ているのである。

ホステルは安いけども場所が街の中心から大分離れているのが普通だ。“ない”、と言われても、もうここまで来てしまったので何とかして欲しい。

その雰囲気が伝わった事と、どうも私がこの国のコペルニクスという奴に似ているという事で、おばちゃんは一転して、ダイニングルームに泊めてあげる、という。

何だか明らかに人で対応を決めている感じ。

後でいろいろな人に聞くと、ポーランド人は日本人に割と親切なのだが、中国人に対しては相当厳しいらしい。中国人の旅行者にとっては災難である。

まあともあれ、そんな感じで救ってくれたおばちゃんであったが、最後に、

「ただし、そんな訳で、夜の10時にならないと寝る場所がないよ」と。

既に10時近いので、他のホステルはあたれない(ポーランドでは10時から17時まですべてのホステルが閉まってしまう)。

仕方なくホテルを探すか、と思ったら、

「半額の16ズロティ(455円)でいい」という。

もう瞬時に、断然この宿に決めた。

しかし自炊と言い、深夜バスと言い、この宿と言い、何時の間にか精神は完全に15年前の貧乏旅行に戻っている事にハッとする私であった。

共産時代のスーパー?

荷物を置いても寝不足で何だか体が重いのだが、街角に出てみる事に。

まずは近所のスーパーに。

驚いた。そこにはソ連のイメージ通りの棚が並んでいる。つまり同じ商品が大量に積んであるだけ。

プラスチック容器になっていて商品がカラフルになっている事が少し救いかもしれない。そしておなじみの行列がここにある。非効率なレジの為、多くの人が並んでいた。

私はなんだかむしろ安心してしまった。これぞ旧ソ連の遺物。

ただ、他のスーパーマーケットは洗練されていて、だいぶ様子が違う。ポーランドでは今が過渡期なのかもしれない。

だいたいにしてポーランドはこんな感じ。バルト三国より洗練されていない。女性のおしゃれ度も差があるようだ。黒いジャンパーを着ていても、ここでは野暮じゃない。

スタディアムマーケット

ワルシャワ名物のスタディアムマーケットと呼ばれる場所へ。

何故『マーケット』に『スタディアム』と付いているのかは行ってみたようやく分かった。

ここにはギリシャ神殿の様な大きなスタジアムがあるにだった(このスタジアム自体は、もう既に老朽化していて、観客席の椅子はことごとく壊れてしまっている。ただ中央にはサッカー場がスッポリ入る大きさで、恐らく数万人の観客席はありそうな大きなもの。この日は中学生のサッカーの試合が行われていた)。

そしてこのスタジアムの周囲を何重も取り巻くようにマーケットが並んでいる。ある店はテント、ある店はコンテナという具合。客はこのスタジアムを何周も回る事になる。

商品の中心は洋服。その他に靴や装飾品、おもちゃ、土産物、電気製品などなど。

スタジアムの直径は250メートルくらいだから、一番内側のお店を見るだけでも1キロくらい歩かされる。ついつい色々と見てやろうと何周も回るので、このマーケットだけで7〜8キロ以上歩く事になった。

しかしただ何だかんだと同じような商品ばかりなので買う気にはならない。欲しい物が1つもないマーケットというのは始めてかも。

一方、逆に興味を持ったのは働いている外国人達。

まずは、バルト三国ではほとんど見なかった黒人である。何人にも聞いたが、全員がナイジェリアの人だった。そして出稼ぎではなく移住である。どうもここポーランドでもユーロ参加を睨み、ある程度のこうした移民受け入れをしているというのが地元ポーランド人の説明だ。

エストニア、ラトビア、リトアニアと下がってくるに連れて英語が通じなくなっていったが、ポーランドはさらに通じない。しかしこのナイジェリア人達はほとんど英語を話すので、むしろ外国人は彼らとの交渉の方が多いみたいだ。時々ポーランド人の通訳も買って出ている。

ナイジェリア人の商品はほとんどが洋服。

何でもポーランド人もブランド指向が強いという話で、大抵はむりやりなナイキかアディダス(何故かポーランドではアディダスが強いのだ。しかも2本線だったりすることも)。

『Made in 何とか』と書いていない商品が多いが、聞くと多くはトルコ製の様だ。一部中国製も。

次に多くいる外国人がベトナム人。これは旧共産圏って事で不思議はないが、何故かスタジアムの一番外側に多く店を構えている。ある地域などは全員ベトナム人で、ベトナム語が飛び交っているという不思議な場所になっている。

食堂みたいな場所は、この規模の割に少ないのだが、ベトナム人がいるおかげでベトナム風の中華料理屋があるのが嬉しい。

ワルシャワの旧市街

シューベルトが通ったというワルシャワ大学だの、旧市街だのも一応回ってみるが、どことなく感動がない。

理由の1つは、バルト三国を回っているので中世に飽きてしまっている事。

そしてやはり同じ中世の街と言いながらも、ここワルシャワの旧市街は、第二次世界大戦で徹底的に破壊された後に再建されたものだからだろう。何となくこざっぱりしてしまっている。

そして微妙にお店のショーウィンドウ等が大きく作られていて、タリンの旧市街に比較すると狙いをもって“作られた街”を感じてしまう。ガラス張りのピザハットの座席がたくさん見えると、何だか素通りしたくなる。

ただ、街を楽しませる役者は、ここには多い。

今日は日曜日に加え、もう何日ぶりって程の晴だった為、旧市街はたくさんの観光客が訪れている。

ぬいぐるみを来て旧市街を練り歩き、店に勧誘するビールマンやピザマン。

真っ黒な服装でマスクまでかぶっている人や、銅像の用に黄金に体中を塗りたくっている人が、記念撮影に応じて金をもらっている。ポーランドの民族音楽か何かしらないが何ヶ所かで演奏もしているのだった。

因みに、こんな街にもマックは当然のようにある。

このポーランドでは、マックのハンバーガーは2.8ズロティ(80円)。

大きさは普通だが(つまり日本より少しだけ大きい)、肉は今までで最悪。パサパサで味気ないこと。

キューリー婦人

“放浪する化学者”原中としては、この国に来てキューリー婦人は外せない。

ポーランド化学会が、キューリー婦人の生家をミュージアムにしているのである。

2階のレセプションで6ズロティ(170円)を支払い、中へ入る。

そこにはキューリー婦人の若い頃の写真や(とてもきれい、さすがポーランド人)、机、実験器具などが置いてある。大学一年の時にやった元素分析と同じように、キューリー婦人が放射性元素を如何に分離していったか、などが、手書きの実験ノートの一部として残っている。

ある写真が目に留まる。1930年頃の、何かの学会の写真で、教科書でしかお目にかからない、「○○の法則 or △△原理」の人達、すなわちポーリー、ボーアやアインシュタインなどと並んでキューリー婦人も映っている。いゃー、実に感動。

ステーツ人再び

ポーランドでも、再び“ステーツ人”と同室だ。

「今日どこへ行ってきたの?」と聞かれたので、

「キューリー婦人の博物館さ」と答えると、何とこのステーツ人。キューリー婦人を知らないのであった。

それはそれでとんでもない事だが、キューリー婦人って、特に日本で有名なのかもしれないなあ、などと今日博物館で思った事がある。各国でキューリー婦人の素晴らしさが伝記になっていて、その本の表紙がこの博物館に飾ってあるのだが、日本のものは2冊もあった。そう言えば私も化学者になるずっと前から知っている。

またゲストブックを見ると、何故か日本人がとりわけ多い。ポーランドを訪れる観光客は圧倒的にヨーロッパの人が多いはずで意外だった。

どうでも良いのだが、このステーツ人の彼は、アウシュビッツがポーランドにある事も知らずにこの国に来ていた。

「えっ、アウシュビッツって、ポーランドにあるの!?」って。

それまでの話だと、彼の祖父は第一次世界大戦の前後にポーランドから移住してきたってことだったのに変なの。

クラクフに行こう

中世の時代、クラクフはかつてのポーランド王国の首都で、プラハ、ウィーンとならぶ、中央ヨーロッパの文化の中心らしい。私にとってはアウシュビッツへ行く拠点にしか過ぎないつもりだったが、ここは第二次世界大戦の被害から逃れる事が出来たらしく、立派な中世の建物が数多く残っている。

あえて言えば京都的な位置づけかも(もうヨーロッパの中世は見飽きたけど)。

ビエリチカ岩塩採掘場

旧市街とアウシュビッツ以外に、実はクラクフではもう1つ見所がある。

13世紀から20世紀まで世界有数の岩塩採掘場だった場所だ。

12時半に始まるというので、昼飯は館内にあるピザ。

入場料は24ズロティらしいが、英語のガイドツアーに参加すると34.5ズロティ(991円)。基本的には工場みたいなものなので、団体行動だ。

まず380段ある階段を降りる。木製の階段だ。

その後、延々と続く通路と、時々あるチャンバーと呼ばれる部屋見学する。全て地下の岩塩を掘った跡。

教会あり、銅像ならぬ塩像あり、湖ありで結構驚く。

一番大きなホールは教会になっていて、ここで結婚式が行われる事があるという。ここは地下101メートル。たった3人の技師が掘ったという。14世紀の事だ。

この岩塩採掘場で働く人々は、当時土曜日曜なしで働いていたらしい。ただ奴隷という様な扱いではなく、地上には家族が住んでいたらしい。

塩で出来た作品の数々があまりにすごい。きっとこの作業、まさに一所懸命に打ち込んだんだろう。

因みに、この採掘場にはレストランもあってスープを出す。

話題作りの為か、妙に塩っぽいんだな、これが。


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