退職のち放浪 ライブ(30)

戦場へ行こう リトアニア編

恥の上塗り

先日のライブレポートで、「この赤い果物って何だろう、食べた事ない」なんて書いたら、たくさんのメールを頂いた。「そりゃ、どう見てもザクロだよ」と。

いやー、ザクロでしたか。名前は知っていたけど、どんな果物か知らなかったなあ。

そう言えば、前の会社が赤坂にあった頃、「ざくろ」という名前の高級料理屋が近くにあって、偉い人が接待に使っていた。

そんな訳で、とても高い果物のイメージがあったのですが、一個108円というのは、安いんでしょうか?

しかしみんな知っていたという事は、日本でも結構食されているという事なんだなあ。

レポートに書いちゃうなんて、結構恥ずかしかったりする。

そうそう、知らないと言えば、最近まである2つの国名を聞いた事がなかった。

これでも一応、元商社マンである。同僚が、誰かしら、どこかしらの国を訪れていたはずだが、これも恥ずかしながら知らなかったのだ。

1つは「ウジュビス共和国」。

これはリトアニアのビリニュスにある小さい国で、何でも4月1日にはパスポートがないと入れないらしい。

もう1つは「ユナイテッドステーツ国」。

旅行者がユースなどで同室になると、「今日はどうだった?」、「どこから来たの?」なんて話をお互いするのだが、ヨーロッパに来て、「ユナイテッドステーツ」と答える「ステーツ国」の人が多くなってきた。

「商事」、「物産」と言えば、「ユアサ商事」、「片岡物産」と相場が決まっているが、「リパブリック」や「ユナイテッドステーツ」と答えられるとそれだけでは分かるわけがない。

悩んだ挙げく、「どのユナイテッドステーツだい?」と聞くと、「アーユーキディング?」なんて返されてしまった。

どうやら、これがちゃんとした国名らしい。

このステーツ人、3つほどちょっとした特徴がある。

母国語の他に、英語を操るらしいがとてもうまい。そして早口でつなげて話す。ちょっと鼻にかけて話すのは、ステーツ国が寒いからだろうか。

困るのは世界中の人間が全員英語を話すと思っている節があるから厄介である。

次に、場を制しようとする。飛び込みで人の会話に入ってきて、何時の間にか会話を乗っ取っている。全体の9割くらいこのステーツ人一人が話していたりする。ワールドシリーズなんて言うから、ワールドカップの事かと思って聞いていると、どうやら自国の試合らしい。で、ひとしきり話すと、サッといなくなったりするからびっくりだ。残った連中、苦笑い。

そして妙にファンキー&パンキー。

「やあジャパニーズ、踊りにいかないかい?」とステーツ人。

「う〜ん、難しいな。今日中にこのレポートを仕上げたいんだよ」と私。

「そうか、じゃあもし早く終わったら来いよ。そこの店だから、先行くぜ」とステーツ人。

そして2時間後、ステーツ人が宿に帰ってきたので「踊りはどうだった?」と聞くと、

「えっ、今日は行ってないよ」とあっさり。

じゃあお前、さっきの会話はなんだったんだよ、と思ってしまう私。

アジアでは全く見かけなかったので、恐らくヨーロッパの小国に違いないが、この軽さと変わり身の速さは、歴史の中で身につけたのかもしれない。でも有名になるにつれ、ちょっと世界の人からは嫌われてきているみたいだ。フランス人なんかぼろくそに言っている。

しかし、果物といい国といい、知らない事って本当に多い。

戦場へ行こう

このシリーズのタイトル、今思うと、あまり良くないかもしれないなあ。

何だか、イラクに派兵したい国会議員みたいだ。でも「戦争へ行こう」ではありません。

小生の放浪のテーマが、『愛と平和とQuality of Life』なので、戦争の傷痕は是非見ておきたいなんて思っている訳です。同時に今更ながら歴史を勉強し始めたりして…。

さて今回、このライブを軽いタッチで書き始めたのは、実は内容が重いからだったりするのでした。

KGB博物館へ

『アメリカ/CIA』対『ソ連/KGB』というイメージでいる私は、KGBに対して割とスマートなスパイ活動を行う組織、というイメージだった。

モスクワで見た、元KGBビルも、とても素晴らしく、近代のインテリジェントビル、なんて思ってしまった。

ところが、ここではまったくその印象が違うのである。

このバルト三国では当然、ソ連の支配に対するレジスタンスがあった訳だが、そういった抵抗勢力を徹底的に弾圧、逮捕、尋問、拷問、殺戮したのはKGBだったのだ。

その博物館は、ゴシック作りの建物で旧市街の離れにある。あまり目立たないが、「これは○○美術館です」とガイドさんに言われればそのまま信じてしまうような立派な建物。

しかしちょっと違うのは、壁に【誰々1925-1946】という様なプレートがはめ込まれている事だ。恐らく全員KGBにやられた人たちだろう。その年代の差を取ると、バルト三国のレジスタンス達が如何に若かったのかが良く分かる。

この博物館は、実際にKGBが使っていた監獄を、リトアニアが一般公開しているものだ。

監獄は、半地下にあり暗い。全部で20〜30ぐらいの小部屋(CELLと書いてあった)に分かれている。

印象的なのは、次の場所。

<<水牢>>

部屋の中央の高いところに、直径30センチの金属板がある。そこに裸の囚人を立たせる。当時、回りには氷水が張ってあって、眠るとバランスを崩して氷水に落ちてしまう。冬にはその水が凍ってしまうらしい。

<<超小部屋>>

座るスペースはなく、立つ事しか出来ない部屋なのだった。これは一種の拷問である(因みに似たようなものは、韓国の戦争記念博物館にも日本軍の設備が展示してあった)。

小部屋でなくとも、狭い部屋に数十人詰め込んだそうだ。込んだエレベーターの様な状態で長時間すごすのは絶対辛い。

<<無音室>>

壁・床・天井全面に分厚いクッションを貼ってある。

「地球の歩き方」には、“拷問の際、外に叫び声が漏れない様にしてある”と書かれているが、「ロンプラ」には、“真っ暗でかつ無音の状態で、精神に異常をきたすまで入れておく”と書かれている。

<<トイレ>>

1日に一度だけ使用できる。あとは各部屋にある袋にせざるをえない。

睡眠や排泄など、生理的欲求に制限を課すのはひどすぎる。

因みにシャワーは一ヶ月に一度。

<<処刑の様子が書かれた部屋>>

強化ガラスで出来た床下には、靴や眼鏡、人骨などがポツポツと散乱している。処刑された遺体は、現在のロシア領に運ばれたものもあって、今だにわからない事が多いらしい。

一人のリトアニア人らしき方が、資料を食い入るように見ていた。親族かもしれない。

などなど。

多くのリトアニア人のレジスタンスは、遅滞なく処刑もしくはシベリア送り(20万人)にされて行ったそうで、その辺りの書類なども、KGBがシュレッターで証拠隠滅している事実があるらしい。そしてシュレッターに掛けられた書類の山も展示されている。恐らく、リトアニア人の中には、ロシア人に恨みを持っている人も多いのではないかと考えてしまう。

この、ロシアって国民の残忍さ、現在はなりを潜めているが、いつ何時、とバルト三国の人は思っているかもしれない。バルト三国にいるロシア人達が傍若無人にふるまうと、平和な国でも結構問題が起こる潜在的なものを感じた。

ロシアにいたときはロシア人自体はとてもいい人たちだなあと思っていたが、どうもバルト三国に来てみると、ロシア人達のお行儀の悪さが目に余る。バスの中で無茶苦茶でかい声で話したり、ひどく酔っ払ったり。

厳しい過去があるのだから、ちょっとは普通にしてた方がいいんじゃないかと思うのだが…。

一方、バルト三国の人も、何だか許容しているようなところすらある。

あまり邪険にすると恐らく国際問題になってしまうのかもしれない、などと邪推する私。

そんな行儀の悪いロシア人に、バルトの人々が言えなくても私は言いたい。

「とりあえず、俺の金返せ!」

バルトの大学生にストレートな質問をぶつけてみた。

「過去にロシアって、こんなにひどい事をバルト三国にしているよねえ。そして現在ロシア人が多く住んでいる。いざこざとかは無いの?」と私。

「えぇ、ほとんどないわ。特に教育レベルが高い人たちの間では。

確かに、バーかなんかで、

“おっとあいつらロシア人だぜ”

“おい、ちょと待てよ。その“ロシア人だぜ”ってどういうことだ”

という様なちょっとしたいさかいがあるけど、まあこれはどこの国にもあるんじゃないかしら。例えばアメリカの白人対黒人の様に」と彼女。

彼女の母親はロシア人らしいので多少は割り引く必要があるだろうが、まああまり心配するような事態にはなっていない事が救いだ。

国立ユダヤ博物館別館

ロシアKGBの次は、ナチスドイツの話(歴史的な順序は逆ですが)。

リトアニアでは何万人ものユダヤ人がナチスドイツに殺されたらしい…。

この博物館別館では、その一つ一つが詳細に調査され、写真と資料がここに展示されている。

あまり、その残虐行為の1つ1つを語っても意味がないし、私ごときが語るべきでないので差し控えたいが、展示しているものの訴えかけるものはすごい。

『歴史は繰り返す』なんて言葉があるが、この展示を見ると、あまりの壮絶さを学ぶがゆえに現代ではそうならないと思うし、そう願うばかりだ。

しかし写真という技術ってのは生々しい。

ここでは唯一救われる事がある。

そう、杉原千畝だ。

最近、テレビ番組なんかで紹介され始め、ようやく有名になってきた『ジャパニーズ シンドラー』と言われる人である。

『私を頼ってくる人々を無視する訳に行かない。でなければ私は神に背く』

(しかし、杉原千畝自身は、命令違反により罷免させられ、外交官の道を絶たれる)

彼のコーナーが、この博物館別館にあって、新聞記事などと共に紹介されている。

その1つにこんなのがあった。

『外務省はこれまで杉原氏に対する処分の非を認めようとしなかったが、鈴木宗男外務政務次官が、妻の幸子さんが執筆した著書「六千人の命のビザ」を読んで、杉原氏の行動に感銘。外務省を説得して公式謝罪と名誉回復が実現する事になった』

宗男君もたまには良い事してるんじゃない。

杉原記念館

リトアニアに来たのは、元ソ連に興味があった事に加え、やはり偉大な日本人の足跡を追ってみたかったのだ。

当然カナウスに行くのだった。

ここは15−16世紀の間、そして第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、リトアニアの首都だったところである。

ビリニュスからはバスで90分程度。

元首都にしては、なんだかのんびりとした穏やかな街である。町にはまだホンダシビックが走っていて懐かしい。

ここに、杉原千畝が勤めていた領事館がある。現在は、『杉原記念館』として保存されており、彼の功績が高く評価されている。

ロンプラにも『カナウスのヒーロー』として紹介されているが、展示物の多くは日本語で書かれていて、むしろ訪れる人は日本人が多い。

当時、杉原千畝がビザ発給に使っていた机が置かれており、ペンも残っていた。平和の使者として折鶴も置かれている。

壁には立命館の高校生?が作ったらしい、彼の足跡のパネルがとても良く出来ていて理解を助けてくれる。

ゲストブックには、たくさんの数の日本人が、その訪問を記していて、最近ようやく日の目を見るようになった事が分かるのだった。

本棚には、彼の伝記の数々がある。

こんなにたくさんの本で紹介されているとは思わなかった。

杉原千畝は国を裏切ってまでも人道的に行動した、というところが評価されているわけだが、実はビザを発給するときに、一人一人に「ニッポン、バイザイ」と言わせていたらしい。

これは私も知らなかった。この記念館に置いてあるビデオを見て、そんな一面を知ったのだった。

ここで救われる気持ちになって、いよいよアウシュビッツである。


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