退職のち放浪 ライブ(28)

街へ行こう ラトビア編

さらに南下する。

次は、ラトビアのリーガである。

ラトビア

まずは簡単に国の外観をまとめてみたい。

1.面積: 6.4万km2(日本のおよそ1/6)

2.人口: 238万人(2000年人口統計)

3.首都: リーガ(人口77万人)

4.言語: ラトビア語

5.宗教: 東部−カトリック、西部−プロテスタント(ルター派)

6.人種: ラトビア人はリトアニア人と共にインド・ヨーロッパ諸族系のバルト諸族。東部(ラドガリア地方)と西部で方言、宗教が異なる。民族構成はラトビア人57.6%、ロシア人29.6%、ベラルーシ人4.1%

リーガへ行こう

パルヌからリーガ行きのバスに乗ると、パンキーな大学生らしき集団が乗っていた。騒いだり、携帯が頻繁に鳴ったり、大声で話したりと結構うるさい。まあ学生はみんなこんなものか、と諦めながらも、だんだんと酒が回ってきているようで嫌な感じ。彼らはタリンから乗ってきているので、恐らくエストニア人なのだろうが、ふと気づくとロシア語で話しているようである。

エストニアにいるロシア人なんだろうな、きっと。粗野な振る舞いもロシア人ぽい。

実はエストニアに来て少々驚いていた。人々の振る舞いがロシア風ではないのである。特に大声を出さない。ロシアに吸収されてから、大分ロシア人が入植しているようであるが、もともとエストニアの人はフィンランド人に近いんだろう。

ただ下記で書くように、ロシア人が30%程度いるのも事実である。こんな学生のように。

このパンキー連中、空いていた私の隣の席まで陣とって騒ぎ始めていた。その内、こちらに興味を持って話し掛けてくるだろう。酔っ払いに絡まれるのはごめんだから、寝たふりをする。旅するのも楽じゃない。

結局ラトビアの首都リーガに到着したのは予定より30分遅れて19時だった。3時間半掛かった事になる。ここは何故かエストニアよりも寒い。

これから宿を捜すのも疲れるなあ、銀行は閉まっているだろうなあ、などとと思いながらもバスターミナルのATMの前に立つ。良かった、ここでも予備のクレジットカードが使えるようだ。

画面で金額が何種類か出てくるのだが、うかつだった。ラトビアの通貨が何で、幾らくらいなのかということを知らなかった。バスの中でガイドブックをチェックするはずだったのだが、パンキーな学生に絡まれたくなかったので寝たふりをしていて、肝心な事をすっかり忘れていた。

まあ100も出しておけば良いか、あまりたくさんキャッシングしても損するだけだし。と思い、100を押す。しかし、これがとんでもない間違いだったのだ。

後で、通貨単位は【ラッツ】であること、そして1ラッツは何と200円程度である事を知る。そんなわけで、一気に2万円もキャッシングしてしまったのだった。こうなると少なくとも3日は滞在することになってしまう。もちろん次の予定訪問国リトアニアへ持っていって交換は可能なのだが、そうやっているとどんどん損をする。ただでさえ金利が掛かった金なのだ。

エストニアのタリンに比べて、リーガは大都市だった。その違いに驚いてしまうほど。さすがにバルト三国の首都と言われるだけあるようだ。そもそもバスが遅れたのは渋滞がひどかったからなのである。それほどこの街には車と人が多い。

そしてバスターミナルから歩き始めて気づいたのは、道々行く人の歩くスピードが速いこと。東京ほどではないが、タリンよりも遥かに速い。

リーガの宿

最初の安宿は、剣もほろろに断られた。こちらの言うことが分かっているのか分からないのか、ともかく「ニエット」の連発。

「じゃあ、明日はどうなの?」、「明後日は?」、「因みにここは幾らなの?」、「電話はあるの?」などの質問に対し、全て「ニエット、ニエット、ニエット」。

どうも東洋人が好きではない感じだ。それにしても、ここはラトビアだから“ノー”という単語は、“ニエット”ではないはず。悪しき旧ソ連人という感じだな、ありゃ。

しかたなく、近くの高いホテルに行く。一番安い部屋で16ラッツ(3200円)。これは泊まるだけの値段で朝食などは付いていない。駅前と言えども高いのだが、電話が部屋にあるというのでここに決めた。まああまり安い部屋にしても、有り余るラッツに困るだけなのでいいだろう(と自己弁護する私)。

電話は、フィンランドやエストニアに比べると少し通信速度が遅い様であった。

ラトビアのスーパー

エストニアにあったスーパーがここリーガにもある。ちょうど会社帰りの時間にあたってしまったのか、ものすごく込んでいる。特に惣菜コーナーは無茶苦茶込んでいた。所得の低さから言っても、恐らく共稼ぎだろうから、夕飯のちょっとしたおかずを買おうというのだろう。カウンターの向こうには何人もスタッフがいるのだが、対応にてんてこ舞いといった感じ。

ここでサラダ2種と肉、パン、ビールなどを買い、宿に戻って食べた。宿は高いが、エストニアと同じで食料品は安かった。ビールを含めても400円程度で豪勢な夕食になる(注:私にしては、ですよ)。

両替

エストニアのお金が少し余っていたので交換した。65クローン(577円)で、お札で5枚もあったのだが、返ってきたお金は2.65ラッツ(530円)で、コイン4枚ぽっちだった。

2ラッツのコイン一枚が400円分に相当する。そんな高価なコインは始めてだ。

街中には、銀行でなくともマネーチェンジする場所が幾らでもあった。

しかし日本円のレートは悪い。しかも恐ろしいことに、比較的良いレート(0.500)と、悪いレート(0.360)との開きが無茶苦茶ある事。2割3割当たり前の世界だった。クレジットカードのレートに期待するばかりである。

マーケット

翌日マーケットに行く。ここはすごい活気だった。

洋服、靴、CD、肉、魚、野菜、果物など日常生活用品と食料は何でもある。

しかし物資が豊富だ。エストニアのタリンよりも豊富に物が並んでいる。ロシアの都市の比じゃない。ここはソ連のごく1都市に過ぎなかったはずで、言ってみればイルクーツクなんかと同じ位置づけだったはずだ。しかしこのマーケットと人に賑わい、活気を見る限り、やはり堂々と一国の首都という感じがする。

タリンのマーケットと違う事が2つ。1つは声が大きい事。そして英語があまり通じない事。エストニアからラトビアに来てはっきりと感じる。ロシア人の比率は、両国とも30%程度なので変らない。ただし同じバルト3国の中でも言語が大きく違うらしい。エストニア語はフィンランド語に近く、ラトビア語・リトアニア語とはかなり違うらしい(誰が何語を話しているのか全然わからない為、聞いていて、ちっともその具体的な違いがわからないけど…。ロシア語を話している人もいるし)。

ということは、エストニア語の方が英語の習得に有利なのかなあ。もしくはエストニアの人口が少なすぎて(144万人)、経済的に他国に異存する度合いが大きいからかもしれない。

この考察はリトアニアに持ち越そう。因みにラトビア(238万人)、リトアニア(370万人)である。

靴下売り場のお姉さんのところで音楽が掛かっていた。ロシアで良く聴こえてきたポップスだったので、

「これってなんて言うやつ?」と聞くと、

「これはロシアよ、XXXX International」。

「CDをどこかで売ってないかなあ」と聞くと、ちょっと待っててと、CD屋でこの曲が入っているやつを探し出してくれた。昨日は嫌な印象を持っていたが、やはりラトビア人、親切だ。

因みに、CDは、3.5ラッツ(700円)と少し高め。だいたいの店では2〜4ラッツでCDを販売していた。

肉、魚、野菜とも値段はいろいろだが、ざっと感じるところ日本の3分の1から2分の1程度だろう。

さかなの酢漬けやスモークなどは試食も可能。さすが港町だけあって魚は豊富。スーパーには各国の調味料、さらには日本の海苔まで売っているので、このマーケットで買い物して自炊したらとても豊かな食生活になりそうだ。

何かの魚をスモークしたやつの切り身を買った。これなど日本で買ったら1000円近いんじゃないかな。ここでは200円しないのであった。

ラトビアの果物

マーケットで買った柿を食べた。

日本の柿は横に長いが、こちらのやつは横は日本サイズにもかかわらず、縦に長い。結果としてその体積は2倍くらいある。そして何と種無しである。味は申し分なく日本のものと同じ。2個で0.77ラッツ(154円)。何となく日本の味と思ってしまう。

次に赤い果物を食べる。大きさはグレープフルーツほど。そして中にはアセロラの様な真っ赤な身が幾つも入っている。そう、大きさはちょうどトウモロコシの1粒くらい。形も同じ。その粒の中には果肉の他に黄色い種が入っていて少し固い。地元の人は吐き出しているのかもしれないが、トウモロコシを食べるようにグアッと何粒もかじって食べるので一々出すのが面倒だ。一緒にごりごり食べてしまう。味は柑橘系で結構美味しい。

さてこの果物、一体何ナノだろう。初めて見て初めて食べた。南国の島の街起こしにぴったりな果物という気がするのだが…。

因みに値段は、一個0.54ラッツ(108円)だった。

中華料理屋

余ったラッツを消費する為に、奮発して中華料理屋に行く。入ってみると寿司や刺し身も置いてあってむちゃくちゃだ。

女性のウエートレスも、「それ、中国人が着ていてもおかしいぜ」という様な中国式ネグリジェ(そんなものあるのかどうか知らないけど)を着せられている。う〜ん、怪しい…(そして妖しい)。

まずはスープ。頼んだのはホット&サワースープ。これは70点で合格。

次に茄子の炒め物。いきなり10点。どうやったらこういう事になるのか聞いてみたい。きっとマニュアル通りなんだろうが、それが間違っているはず。しかし人間なら味を感じて欲しい。中国人はこんなもの食べていない。

最後にチャーハン。20点。米がまずいんだろうけど、塩と胡椒でいいからふってくれ。味がないじゃんか。

ビール、これは文句なく合格。

以上4品で5リッツ(1000円)なのであった。

国立オペラ劇場

国立オペラ劇場へ行く。明日のバレエは売り切れだったが、今日のオーケストラのチケットが残っていた。一番安いやつは1.5ラッツ(300円)。たまには良い席で見たいので、6ラッツ(1200円)と張り込んでみた。

結果として座席はものすごくよい場所だった。指揮者まで20メートル程度で、ど真ん中。私の前列が一番高い席なのだが、満席に近いにもかかわらずそこだけはご欠席の様で、頭を動かさずに全員の指の動きが分かってしまうという、これまでの人生でも最も素晴らしい席だった。

またまたガラでもなく感動してしまうのだが、気恥ずかしいのでここでは省略。

偶然にも、隣の席は日本人のご夫婦だった。風格からすると“大使様”かなあ、でもラトビアはスウェーデン大使が兼任だった様な…、などと思いながらも、

「日系企業の方ですか」と敢えて聞くと、

「えぇ、まあ、そんなものです」という回答。やはり大使館の人だ。

実は私は知っている。

  1. 平成13年度は、ラトビア国立オペラ劇場が楽器を購入するための4,840万円を限度とする額の文化無償協力
  2. 平成14年度は、ラトビア国立交響楽団が音響・照明機材および楽器(ハープ)を購入するための5,000万円を限度とする額の文化無償協力

をそれぞれ行っている事を。

別に“恩をきせる”訳でも、“悦に入る”訳でもないが、国際協力をしたんだったら、「Show me the flag」と言いたくなる。

そうする事で、このラトビアの人たちも日本へ親近感を持ち、やがて日本を訪れるだろうし、また日本から訪れる人たちと話のきっかけになるはずだ。そうしたことから草の根の交流が始まると思う。モンゴルでは少なくともそうだった。

ところがこのオペラ劇場では小さな日本国旗が見られないどころか、そんな事実があったことさえわからない。

何かのスポンサーの企業名もしくはロゴが入ったプレートが20ばかり、劇場の壁にしっかり貼られている。その中にはCanonがあって救われるのだが、一方、日本政府、もっと頑張れ!

しかし、コンサートの合間の休憩時間に、2ラッツ(400円)もするシャンパンが飛ぶように売れている国に対して、無償協力を行う必要があるのかどうか、もっと貧しい国があるんじゃないのか、という議論については、ここではやっぱりやめておこう。

リーガの街

街を歩く。

ここも世界遺産になっている場所だ。

しかし、タリンを見てしまっているので感動が少ない。というよりは、悪い意味でのロシアチックな感じを少し受けた。つまり落書きがあったり、汚かったり、ゴミが落ちていたりする。

そしてタリンほど完璧さを追求していなくて、石畳の途中でタイルを使用していたりするところが少々がっかりだ。

こんな事を書くと、リーガに対して悪いイメージを持ってしまう人が多いと思うが、それほどタリンが素晴らしかったという意味で、恐らくリーガを先に見ていたら相当感動していたに違いない。ここはここで、間違いなく“ああ中世“と感動する場所なのだ。

(とフォローしてみるが、住むならタリンの旧市街でしょう、やっぱり)

占領博物館

重々しい黒い建物がラトビア占領博物館なのであった。

この博物館の展示物のスタートは、1939年8月23日の独ソ不可侵条約と同時に結ばれた秘密協定から始まる(当時の両外相の名前を取って、モトロフ−リッペントロップ秘密協定と呼ぶ)。

この協定によりバルト3国は、ソ連の勢力下に置かれる事になり、それはそれですごい恐ろしい事なのだが、英訳を読んでみると、Estonia、Latvia、Lithuaniaと並んでFinlandも書かれている。どうやらフィンランドもちょっと間違えば同じ運命をたどっていたのだろう。

そしてそれから1991年まで、弱者の苦労が赤裸々に展示されている。

何度、ヒットラーとスターリンが登場する事か!

特に、スターリンによってシベリア送りになった数多くのラトビア人の生活ぶりがわかる。強制収容所の模型まで展示してあり、抑留された日本人の生活もこうだったのではないかと思わせるところがあるのだった。

こういう手記が残っている。

『TO SURVIVE SLAVE LABOUR, ONE NEEDS TO LEARN A LOT: THE RUSSIAN LANGUAGE, THE SKILLS TO MAKE ESSENTIAL EVERYDAY TOOLS AND UTENSILS ? SPOONS, NEEDLES, FACE MASKS, FOOT WEAR, EVEN PAPER. ALL OF THESE WERE MADE IN SECRET, WHILE SUFFERING BOTH PHYSICAL AND MORAL DEBASEMENT. WHEN A PWESON DIED. THE OBJECTS WERE LEFT TO FELLOW SUFFERERS WHO WERE STILL ALIVE.』

こんな生活をさせたロシアをラトビア人達は怨んでいないのだろうか? 30%も入植してしまっているロシア人達とうまくやっていけるのだろうか? などと思うのだが、残念ながらその辺りの本音を聞ける人とまだ知りあいにはなっていない。


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