退職のち放浪 ライブ(27)

街へ行こう エストニア編

何もかも洗練されているフィンランド/ヘルシンキであるが、この時期はとても天気が悪いのであった。国境でわずかに青空を見ること5分。あとは5日間ずっと、曇りか雨だ。

サンクトペテルブルクでは1日だけ晴れていたので、この2週間で太陽を拝めたのは、わずか1日という事になる。居心地の良いフィンランドであるが、太陽を見る為、南下することにした。まずはエストニアのタリンである。

エストニア

バルト3国のそれぞれの国は知っていても、どんな国なのかを語れる人は少ない。

そしてメディアの報道だけで国のイメージを持つことがどれだけ間違ったことなのか、モンゴルやロシアを通ってきて分かったので、やはり行ってみないとわからない。

しかし、エストニアってのはさすがに情報がないのでちょっと書いてみたい。

1.面積 :4.5万km2(日本の約9分の1)

2.人口 :144万人

3.首都 :タリン(約43万人)

4.言語 :エストニア語

5.宗教 :プロテスタント(ルター派)、ロシア正教等

6.人種 :エストニア人はフィンランド人、カレリア人(ロシア共和国のフィンランド国境付近に居住)と同族のフィン系。民族構成はエストニア人65%、ロシア人29%、ウクライナ人2.5%

エストニア/タリンに行こう

ヘルシンキ−タリン間は5つの船会社が乗り入れている。その為、価格がいろいろであるが競争が激しい為、フィンランド発にしては概ね安い。私が乗るのはLinda Lineというやつで、20ユーロ(2,609円)。200人程度のスピードボートで、エストニアの首都タリンには1時間半ほどで行ってしまう。

船はほとんど揺れなかった。あっという間にエストニアへ到着だ。タリンの港でガシャンと入国のスタンプを押してもらい、元ソ連の国へ入る。

この国もATMが多いのでお金には困らない。予備に持ってきていたJCBカードはラッキーにも「Plusシステム」に加入しているのでほとんどの国でキャッシングできるのだった。交換レートの悪いCity Bankのカードなんか作る必要がなかった。City Bankの交換レートはTTBに加え3%も取るので、異常に交換レートが悪くなる。キャッシングより安いですよ、などと説明していたが果たしてどうだか。

しかし肝心のJCB自体はとても弱いのであった。街中でほとんど使えない。JCBのマークなんてなかなかお目にかかれないのだ。極まれに横目で冷ややかに見る、有名どころの高級ホテルぐらいしか使えない。

従って仕方なくキャッシングすることに。

そしてキャッシングした金で、本来カードの効くお店で現金で支払い。全く金利分だけ馬鹿らしいぜ。スリのやろう、2次被害をもらたしやがって許さん!

話がそれた。

まずは宿を捜す。有り難いことに港から程近いところに一軒見つけた。但しドミトリーの部屋で290クローン(2575円)。4日間泊まったフィンランドのユースは2544円だったから、エストニアの方がわずかに高い。もちろん朝食込みだったり、お茶があったりと少しサービスの内容が違うので単純な比較はできないのだが、それにしても安くないのがショックだった。旧ソ連なのに…。この分で行くと何でも高いかな…。

エストニアの物価と物資

ところがそうではなかったのだ。宿の近くのスーパーは、あらゆる日用生活物資、食料がフィンランドの3分の1から2分の1くらいで売っている。

何もかも安く感じた。500ミリリットルのビールは9.6クローンで85円程度。これはフィンランドで売っていたものと全く同じブランドだ(因みにフィンランドでは279円)。

そう言えば、ロシアで会ったフィンランド人が言っていた。

「今、政府は真剣に悩んでいることがある。それは酒について。フィンランドは政策的に酒類の値段を高く設定してる。しかしエストニアが2004年にユーロに加盟すると、ユーロのルールでお互いの国へは自由に酒を持って入れる。現在はエストニアがユーロに加盟していないのでエストニアからは1リットルしか認められていないのだが、これが自由になると、どれほどの酒がフィンランドに入ってしまうのか、そして価格がどの程度下がってしまうのか、政府は頭が痛いらしい」

なるほどその通りだ。3倍以上の開きがあったら結果は見えている。

ところで調理済みの肉や魚、サラダ、お惣菜なども安いのだった。さすがにまだ人件費が低いだけがある。ロンリープラネットによると、2002年のエストニアの月給は、365ユーロ(47,620円)/月。そして国民の50%が、100ユーロ(13,000円)以下という。結構厳しい。

しかし、驚いたのは価格よりも豊富な物と、洗練された商品だ。フィンランドが特別と思っていたら、ここエストニアも同様だった。しかし元ロシアである。エストニアが独立できたのは1991年8月20日だ。わずか12年前には、極めてロシアチックな状況だったはずだ。よくぞここまで成長したかと思う。独立万歳!

この国は、ポーランドやルーマニア、ユーゴの様に、ソ連の衛星国家になれずに、そのままロシアに併合された国家なので、相当ロシアの影響が残っているのかと思ったものの、その面影はもはや少ない。いやもしかすると敢えて一掃したのかもしれない。ロシアの嫌な部分を、国民の努力によって一気に吐き出した、そんな感じだ。

来年5月にはユーロに参加するという。その資格と実力は十分持っている。

両替

さすがは首都タリン。西側の主要通貨で両替が可能であった。ロシアでは日本円を受け付けるところは見当たらなかったが、ここエストニアでは結構たくさんある。

が、しかしレートは悪い。

日本円→エストニア/クローンにするよりも、フィンランドで日本円→ユーロ、そしてエストニアでユーロ→エストニア/クローンとした方が良かったみたいだ。

エストニアの風景

実はここも、フィンランドと同じくらいこの時期は天気が悪い。今日も降ったりやんだり。しかし、この天気だから透き通るような白い肌の人が出来上がるに違いない。観光客もいるのだろうが、正直言うと、フィンランドよりも美人が多い。

大体、30分おきにハッとしてしまうのだった。

その街を散歩する。この街を歩くと、フィンランドを褒めすぎた気がしてきた。ここもとてもきれいな石畳が引かれている。周囲の建物もとてもきれい。フィンランドよりも趣があるかもしれない。すっかりこの街を気に入った。

そう言えば、フィンランドを褒める私に、フィンランドに住んでいる人が言っていた。

「あなた、これからバルト3国へ行って、さらにヨーロッパの国を回るんでしょ。フィンランドの事なんて忘れちゃうわよ」

その通りだった。(フィンランドの皆さんごめんなさい)。

ただ実はこれはタリンのごく一部。旧市街と呼ばれる、2.5キロの城壁に囲まれた中世時代の街並みが取り分け美しいのだ。

それがとても風情があって、歩いていて全然飽きない。これで天気が良かったら、多分2週間ぐらい居着いてしまいそう。さすが世界遺産だけはある。

建造物ということで言えば、16年前に見た万里の長城以来の感動だ。

こんな街を創ってみたいものである。

有名なラエコヤ広場に行ってみる。ここはソフトボール場くらいの大きさの広場で、天安門広場の100分の1も無いだろうが、実に情緒あふれる場所だ。

旧市庁舎がライトアップされていてとてもきれい。

こんな場所は、新婚旅行に取って置くんだったと妙に反省してしまう私。

エストニアのビール

ラエコヤ広場近くの、ガイドブックにも載っている【ビアハウス】に行ってみる。大きなタンクが何棟もあってライトアップされている。それだけで素敵。

あまりお腹がすいていないのでごく簡単な料理、但しエストニアのもの、と指定すると、豚の耳の料理を勧めてくれた。豚の耳など、沖縄のミミガーしか知らない。

早速頼んでみた。値段は39クローン(346円)。期待したよりは量が多い。そしてニンニクとチーズのソースに付けると実に美味い。はっきり言って驚いた。高々豚肉。しかも耳。しかも元ロシアというすべての悪条件を裏切ってとても美味しいのだ。もちろん、ここで作っているビールも相当美味いのだが、このエストニアの揚げてあるミミガーには参ってしまった。

そして何故かこの店にはホットビールなる飲み物が置いてあるのだった。聞けば、この店だけではなく、エストニアのものだという。黒ビールに蜂蜜とレーズンを入れ煮る。そしてレモンを浮かべた飲み物だ。恐る恐る頼んでみると、なるほど、もはやビールではないが(当然ながら炭酸が抜けている)、体が温まる様な甘い飲み物だった。ホットワインに似ているのかもしれない。

ほとんど自分で義務化しているマックに寄った。例によってハンバーガーだけを頼む。11クローン(98円)。フィンランドおよび日本のものより若干大きい。パンはフィンランドより美味い。しかしエストニアの人もマックが好きなんだなあ。結構並んで買った。

エストニアの宿

この宿、港に近いだけでなく、実に素晴らしいところだった。まずとてもきれいなのである。中国、モンゴルを旅してきたせいか、ロシア人の清潔観念を褒めていたが、ここの清潔感は、西洋そのもので実に見事だ。宿の主人の性格もあるだろうが、エストニアの街といい実にロシアからかけ離れている。

それぞれの部屋、台所、シャワールーム、トイレなど何を取っても申し分ない。宿の名前は【オールドハウス】人に勧めたくなるところだ。

朝食の時には暖炉に薪が組んである。

メニューは、トースト、ハム、チーズとコーヒー、ヨーグルトなど。

そして【KAMA】という、エストニアの郷土食が用意してある。ガイドブックでは、「穀物とヨーグルトのデザート、カマ」と紹介されているが、宿の人によると、「カマ」というのは、エストニアの穀物の粉の事を指すという。それを、いろいろなものに使う。もちろんヨーグルトに入れても良い。

しかしこの【KAMA】、実はきな粉だ。味も、茶色っぽい色も完璧にきな粉。

宿の人に、何から作るか聞いてみたが彼女は知らなかった。「何かのコーンじゃないかしら」と言っていたが、きっと豆だろう。

因みに、エストニアでは豆の料理も多いらしい。豆のスープもあるとの事。

しかし、きな粉をヨーグルトに入れるというのは日本では聞いたことがないが、悪くない。ちょっとしたアイデアだと思う。

5ベッドあるドミトリーの部屋には、私以外に女性二人、男性二人なのだが何故かこの4人はオーストラリア人なのであった。旅していると、本当によくオーストラリア人に会う。

女性二人はナースで、イギリスで働いているとのこと。そして年間7週間の休みがあるということだった。なっ、なっ、何とうらやましい。

オーストラリアでもナースの職は簡単に見つかるのだが、イギリスの方が権限の範囲が大きいらしい。アメリカのERの感じらしいのだ。だから彼女たちはイギリスで働いているということだった。分かる気がする。

バーに誘われたが、今日は、メールを書く為に断ってしまった(こういうのを後悔先に立たずという)。

クルミ割人形

翌日エストニア劇場に行ってみる。さすがに元ソ連。劇場はとても立派。

インフォメーションで聞いてみると、何とクルミ割人形のバレエをやるというではないか。もう反射的に「それ一枚、大盛りで」と買ってしまった。モスクワとサンクトペテルブルクでは何れもその文字さえを見ることがなかったのに。ああエストニア万歳!

問題は、11月29日にエストニアにいるかどうかだ。いないだろうなあ…。

旧市街

再び城壁の中を当てもなく歩く。よく、ガイドブック片手に、見所を指差し確認して歩いている団体がいるが、この場所に限ってはきっとどこもが中世を感じさせるのでガイドブックはいらないかもしれない。特に日本人にとってはだいぶかけ離れた世界なので印象的なはずだ。

郊外へ行こう

しかし、この旧市街だけをみてもエストニアを見たことにならない。ほとんどの人は城壁の外に住んでいるのだから。そこでトロリーバスに乗り、市場へ行ってみることにした。先のオーストラリア人が、トロリーバスのチケットが余っているとくれたものだ。バックパッカー同士は、こうやって助け合うことが多い。私も、未だにサンクトペテルブルクの地下鉄のコインを持っていたりする。

さて、その市場だが、旧市街から20分も遠いところなのに、何と存在していなかった。

相変わらず「地球の歩き方」に騙される私。今回は、ごく最近でた最新版なので大丈夫と思っていたのだが…。

このマーケットは、エストニア最大のもので、フィンランドからも買出しにくるほどと書いてあったので行ってみたのに。代わりにあるのは、スウェーデンかドイツ系のPRISMAという大型スーパーで、日本で言うとJUSCOに近いと思う。エストニア各地にあるようだ。ロシアにはなかったが。

しかし、私が行ったこのスーパー、結構建ってから時間が経っている。サボりすぎだぜダイヤモンド社。

それはともかく郊外は中世の世界とは違いやはり現代だった。ロシア風の面白味のない団地もあるものの、この5-6年という作りの建物が多い。ここはベッドタウンになっているようだ。大型スーパーだけでなく、ファミリーレストランもあるのだった。日本と違うのは、空間の取り方。実に広々としていて、道も歩道も、自転車通路もゆったりとしている。人口密度の差と言ってしまえばそれまでだが、こんな部分は日本よりずっと素晴らしい。

マーケットへ行こう

スーパーマーケットでは一般的な価格を知ることは出来ても街の雰囲気を感じることはできない。残念と思ってひき返すと、リーガ駅の裏に割と大きなマーケットを発見。ここはガイドブックにも触れていない。

食料品、衣料品の他、電気部品やコードなど、ごちゃごちゃした店が並んでいる。私が好きなのはこんなマーケットだ。がらくた屋では、CCCPと書かれたパスポートが売られていた。見せてもらうと、本物のソ連人のパスポートで写真も貼ってあるし、スタンプが幾つか押してある。値段を聞くと、100クローン(888円)。写真は特殊加工が施されていないので、直ぐに私の写真と置き換えが可能。ソ連人原中の誕生だったのだが、一切値引きなしであきらめた。

市場のお惣菜やさんで、サラダやスープ、エストニアのコロッケなどを注文し脇のテーブルで食べた。こういうのが一番美味い。そして無茶苦茶安いのが感動する。

観光郵便局

観光地のど真ん中に、観光郵便局があるのであった。ここでロシアのガイドブックなどを日本に送る。箱も売っているし、その箱はビニールテープでがっちり。さらに荷物はバーコード管理。これでようやく、少し荷物が軽くなる。ああうれしい。

しかし、あのソ連にはこんなもの存在していなかっただろうな。この西側的なこのサービスにしばし感動。


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