『日本経済の投了図』(日本語)
2003年3月4日




PART1

盤上はすでに終盤を迎えていた。飛車角の二枚落ち。上手は駒台の上にあった香車を取り上げ、静かに2四の地点に置いた。伊豆七島は御蔵島産の柘植材で作られた、見事な盛り上げ駒である。香車は力強く、2八の地点にいる下手の王将を睨んでいた。下手は反射的に駒台の歩を手に取り、2七の地点に打ち下ろそうとした。が、止めた。

ややあって下手の老人が静かにつぶやいた
「ここまで、かな」
上手、羽生五冠王が静かに肯いた。
「1八玉ならば、あと15手で詰みます」
すでに百歳になんなんとする老人は、敗戦に子供のように頬を赤らめていた。そして悔しそうに言った。
「ふむ。今日は先生にいい手を教わったな」

老人はふと中腰になり、意外な膂力で重そうな将棋盤を持ち上げた。そして180度ぐるりと回転させて畳の上に置いた。上手と下手の立場は入れ替わった。
「先生ならば、このような局面になったときにどうされますかな」
老人の子供っぽいしぐさに羽生五冠王は苦笑した。
「投了ですね」
「なぜですか」
「口幅ったいことを申し上げますが、プロは人に見せるために将棋を指します。恥ずかしい棋譜は残せません」
「それでは」老人はさらに畳み掛けた。「先生がプロでなければ?」
「最後まで指すでしょうね。最前手を続ければ、少なくともあと15手は続けられます。その間に相手が間違えるかもしれないし、心臓麻痺で倒れるかもしれない。万一の僥倖を当てにして、持ち時間をすべて使うでしょう」
「しかし、奇跡は起こらない」
「まあ、普通はそうでしょうね」

老人は立ち上がって、縁側から遠く大磯の海岸を見つめた。そして振り返らずに言った。
「先生、この局面は、まるでこの国の経済のようだとは思われませんか」
「そのようなことは、分かりかねますが」
「もう20手以上前から、この将棋は勝てないことは分かっておった。それでも途中で止める必要はないし、指している間は将棋は楽しい。だが、いつか終わりが来る。王様の頭に金が乗って、詰まされる瞬間がやってくる。それが分かっていて、止められないのだ」
老人の言葉には、ほとばしるような激しさがあった。
「それであれば、投了してもう一局指した方がよいのではありませんか」
その言葉に、老人の背中が反応していた。だが、老人はやせ我慢するように、湘南の海をながめるばかりだった。

PART2

老人の指令が下ったのは、その数日後だった。日本の戦後史に絶大な影響を与え、最後のフィクサーと呼ばれる「大磯の御前」は、顧問弁護士や会計士、あるいは闇の勢力の代表に至るまでなど、彼の王国を支えて来た部下たちをすべて招集した。

「わしにはもう時間がない」
老人は切り出した。
「すべての財産をキャッシュに代えて欲しい。なるべく早くだ」
「恐れながら」部下の一人が言った。「それをやりますと、株価や地価に影響が出るかと存じますが」
「構わん。どうせあの世には持っては行けぬ。それに海外の資産もあろう。それらをすべて、いつでも動かせるようにして欲しい。わしはこの世で最後の大博打を打ちたい。このままでは死んでも死にきれぬのだ」

実際、老人の財産は莫大なものであった。内外の株、債券、不動産、そして金塊。これらが一度に市場に流出した数ヶ月は、それぞれの市場が混乱を来すほどであった。「大磯の御前、動く」の報は、日本の政官財のリーダーたちを震撼させた。老人の次の一手は何か。そしてその日は、意外な形で訪れたのであった。

PART3

その日、日本の政官財の主だったものたちが大磯の私邸に呼び出された。老人は全員に白紙を渡して告げた。

「ここに好きな金額を書きたまえ」
呼び出されたリーダーたちは面食らいながら顔を見合わせた。
「わしは君たち全員に退職金を払いたいのだ。金額は青天井だ。即金で払う」

しばしの沈黙が流れた。
「そのようなものを頂戴するいわれはありませんが」
事務次官の一人がおそるおそる言った。
「何もただでとは言わん。X月X日をもって、君らには退場してもらう。なるべくなら、その後はこの国を離れて、邪魔にならんようにしてほしい。退職金には、その分のプレミアムも含まれておる」

「そんな金は要らない」かねてから気骨がある、と定評のある一人の銀行経営者が老人を見据えていった。「われわれにも名誉というものがある。こそこそ逃げ回るような人生は御免だ」
「名誉だと?」老人の言葉に、裂帛の気迫がこもった。「この国の経済のどこに名誉があると言うのだ。皆が自分の身を守ることだけに汲々とし、問題を先送りして逃げ切りを図っている。リスクを取ろうとするものはどこにもおらん。今の生活が良ければそれでいいと思っている。だが清算のときはかならずやって来る。日本国債の値段がいつまでも上がり続けると思うか?株価がこのままの水準で決算ができるのか?それが分かっているのに、危機を先延ばししている。そういうごまかしが、ますます問題を悪くしているのに気がつかぬのか。――いいか、この国の経済は、もう詰んでいるのだ」

沈黙が流れた。
今度は腹黒いと評判の政治家が手を挙げた。
「この申し出を断ったらどうなるのですか」
「金だけがわしの力の源泉だと思ったら大きな間違いだ」老人は笑みを浮かべた。「月夜の晩ばかりではない、とだけ申しておこうかな」

PART4

かくして「Xデイ」がやってきた。百人近い指導者が、一斉に日本から消えた。それと同時に、あらゆることが一気に動き始めた。

まずメガバンクが揃って公的資金の注入を申請した。それも数兆円単位で。各行は保有債権の洗い替えを実施し、不良資産をバランスシートから落とした。かくして不良債権処理問題は新たな展開を迎えた。経営陣が一新されたことで、モラルハザードやら国民負担云々といった批判は出なかった。そもそも一部マスコミのトップまでもが、「退職金」を受け取っていたのだから世話はない。ある経済紙のトップなどは、丸裸になって逃げたそうである。

政府予算も、大幅な支出削減によってプライマリーバランスを達成した。もちろん財政赤字が解消するには、長い年月がかかることは明らかであったが、ともあれ発散することは避けられそうであった。大胆な改革ぶりを見て、ムーディーズはJGBの格付けを上方修正した。海外の資金は、日本のアセットを買い続けた。

株価は天井知らずの暴騰を続けていた。そんな状況を、今では無一文になってしまった「大磯の御前」は満足げに見つめていた。最後に残った大磯の私邸も、間もなく人手に渡ることになっていた。
「まあ、いいのさ」老人は言った。「わしの人生も投了の瞬間が近そうだからな」

エピローグ

ところでこの日本経済のハッピーエンドに、苦虫をかみつぶしたような顔をしている人物が一人いた。T金融担当大臣である。実は彼は、ETFの先物を大量に売っていたのであった。






編集者敬白



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