本書は毎日新聞のコラム「酸いも辛いも」に連載された九〇年代の日本経済の記録である。空白の十年といわれるこの期間、毎日新聞の論説委員である玉置氏は警告を発し続けた。早く気がつけ、そうしないと酷い目に遭うぞ、と訴えるものの、結果はご存知のとおりである。
読み進むうちに、さまざまなシーンが蘇る。とくに気になるのは、橋本改革への評価。財政構造改革路線は、アジア通貨危機や金融不安の前に座礁してしまう。後を継いだ小渕政権は減税と補正予算を大盤振る舞いし、金融のソフトランディングを目指す。小渕首相は、「鬼手仏心でやり抜く」と所信表明演説で述べるが、国民の痛みを伴う外科手術は避けた。今から考えると、正しかったのかどうか。
玉置氏は指摘する。新しいGDP基準で見ると、一九九七年の実質経済成長率はプラス成長である。「戦後最大のマイナス成長」といって大騒ぎしていたものが、実はプラスだった。経済失政という批判は、正当なものだったのかどうか。日本の経済統計に対する批判は以前からあるが、単なる後知恵では済まされない問題であろう。
九八年秋の金融不安の真っ只中では、政治家もエコノミストも声をそろえて財政出動を要求した。このときに財政の再建を主張していたのは、本書によれば加藤紘一氏と小泉純一郎氏だけだったという。
このときは明らかに異端者であった小泉氏が、今や首相として日本経済の構造改革を目指している。ここで玉置氏は、西洋中世史家の堀米庸三氏の『正統と異端』から興味深い言葉を引用している。
「異端は正統あっての存在であるから、それ自体のテーゼはなく、正統の批判がその出発点となる」
「異端はきわめてラジカルな理想主義の形態をとる」
「現実との妥協を可能なる限り排除するものであるから、道徳的には英雄的なリゴリズム(厳格主義)を必要とし、その信徒は必然的に少数にならざるを得ない」
まさに小泉改革の本質を言い当てていないだろうか。
国民は今のところ「異端者」を評価し、小泉首相に高い支持率を与えている。ただし「改革の痛み」に怖気づいて、途中で小泉氏を見捨ててしまうかもしれない。改革の成否は、つまるところ国民の緊張感にかかっているといえよう。
編集者敬白
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