心に残るものからはた迷惑なのまで含めて、およそ説教や昔話をする人が、われわれの周囲から減ったような気がする。若者に遠慮しているのか、それとも自信をなくしているのか。
ひとつには純粋に世代交代が進んでいるからかもしれない。自分自身の経験からいっても、ためになるいい話を聞かせてくれるのはせいぜい戦争世代までで、団塊の世代以降になると、そもそも語るほどの歴史を持っていなかったりする。その点、戦前の教育を受けた世代には、今から考えると迫力のある人が多かったように思う。
安岡正篤といえば、今さら説明を必要としない東洋哲学の泰斗であり、政財界のリーダーを育てた教育者である。といっても、亡くなられて二〇年近く経っており、直接薫陶を受けられた人も多くは一線を退いていよう。おそらく今の二十代のほとんどは、「やすおか・せいとく」を知らないのではないだろうか。
幸いなことに著書は残っており、あらたな出版も行われている。読めば格調の高い説教や昔話に触れることができる。本書は昭和三八年に行われた青年向けのメッセージだが、二一世紀に読んでも少しも古くはない。
たとえば「至詢の情緒」という言葉が出てくる。日露戦争の頃は、政治家が天下国家をめぐって興奮し、激論を交わすことが多かった。桂首相と小村寿太郎が抱き合って泣いた、という。こんなことが今の指導者に考えられるだろうか。
「時代を担う人物に求められるものは、いつ、いかなるときにも不変であり、不動であり、そしてそれは常に新鮮である」(本書まえがきから)ことを痛感させられる。
ワールドカップで日本代表リームをベスト一六に導いたフィリップ・トルシエ監督は、いまどきめずらしい熱血教師タイプだった。指導方法は昔ながらの「言ってきかせて、させてみて、誉める」の繰り返し。何ら新しい手法ではなかった。
時代は変わり、若者の髪の色が金色や赤になったからといって、指導方法や伝えるべきメッセージが変わってしまうわけではない。問題は伝える側に、それだけの情熱と説得力があるかどうか。説教や昔話は、聞く側はその値打ちを一発で見抜いてしまうのである。
編集者敬白
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