『愛国者の地雷』田中光二
実業之日本社、九五〇円



北朝鮮による拉致事件がなぜこれほどまでに国民の関心を集めるのだろう。日々、報道されている拉致被害者が受けた苦しみは、今日の社会の常識を遥かに超えるものがある。これだけの不条理が、二十年あまりも放置されていたというショックは深い。また、近隣国家による罪なき国民へのテロ行為は、それ自体が非常にショッキングであることも間違いない。

しかし、それだけではあるまい。これほどの悲劇が、まったく無視されていたということに対する、国民全体の罪悪感があるのではないだろうか。最近になって、歴代政府がなぜこの問題を無視してきたかが問われているが、その責任は単に政府には止まらない。かつての左派政党は責任重大だし、この問題をタブー視してきたマスコミも、罪の一端を背負っていることは言うまでもない。こうした構造が見えているだけに、国民の怒りはますます内攻してしまうのであろう。

結局、拉致問題を追及し続けたのは、産経新聞などごく一部のメディアだけであった。ところがジャーナリズム以外の場所で、タブーに挑戦する試みも行われていた。

それはフィクションの世界である。最近、復刻版が登場した『愛国者の地雷』(田中光二/実業之日本社)は、まだ拉致問題に対して、政府もマスコミも無関心であった一九九九年に書かれた長編サスペンス。こんな形のタブーへの挑戦もあったのである。

一九八五年夏、若狭湾の海岸で、若いカップルが北朝鮮の特殊工作員に拉致される。孫娘を奪われた老経営者は、各方面に事件の解明を訴えるものの、単なる失踪事件と見なされて取り合ってもらえない。外務省も日朝国交正常化交渉の障害となることを恐れて問題を避けるばかり。

老人は憂国の怒りに突き動かされ、自衛隊の地雷をトラックごと奪う。未曾有の地雷テロは、日本中を震撼させる。だが、現実の拉致被害者家族の心情を思えば、恨みを訴えるために鬼となるこの老人を一概に荒唐無稽とは言い切れないだろう。

「憤激なき国民は滅ぶ」とプラトンは言った。正当な怒りを忘れ、物分かりが良い振りをしながら、事勿れ主義に陥ってきたのがこれまでの日本ではなかったか。この怒りは、われわれ自身の過去にも向けられるべきであろう。





編集者敬白



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